「可愛いから怒るんだよ」という呪い

娘の「荒れ」は、少しずつ、少しずつ、凪の時間が長くなってきた。 
  
 今年に入ってからは、春に1度、夏に1度、激しい爆発があったけど、それも去年に比べたら全然可愛いもんだったし、時間もごく短かった。 
 怒りと悲しみの狂乱状態から、普通のモードに戻るまでの時間が短くなり、回復後の安定感も違ってきた。 
 それでも、まだまだ彼女の中に巣食う暗闇は深く、黒く、どうしても「嫌がらせをやめない」という状態像として、出てくることが多い。主に、兄たちへの。 

 本人も、「やりたくないのにやってしまう」と泣いていたことがある。 
 そうだろうな、と思う。もう、物事の善し悪し、やるべきことやってはいけないこと、時間、場所、そういうものはきちんとわかっている子だ。 
 これをやったら、どういう結果になる、誰がどのように困る、ということも、正確に想像できる子だ。 
 だから、「やめなさい!」とか、「どうしてそういうことをするんだ!」って、いくら怒ったって意味はない。それでも、さしあたっては目の前のその言動を止めなければならない。 
 主電源まで、まだ手が届いていない、どこにあるのかはなんとなく見えてきているけれど。 

 親に対して…、特に、私に対しては、そういう態度は激減した。ほぼ、ない。 
 あんなに憎悪に燃えた目で私を睨んでいたのに、こうやって柔らかく許して、甘えてくれるのだと思うと、ありがたくて泣けてくる。 
 ちょっと嫌な行動…、ひねくれた態度、私を試すような言動が出ることがちょこちょこあっても、私も「どうしたの?」と訊けるようになった。問答無用で引っぱたいて、抵抗するから引きずって、暴れるから締め出して鍵をかけていた自分の、どうにもならなかった苦しさを思い出す。 
 そんなひどいことを、やっていい、やるべきだ、などと思ったことはなかったけど、正当化するための言い訳ならいくらでも出てきた。 
 いくらでも出てくる言い訳の、根底にずっと流れていたのは、「私だって!!!!!」っていう悲鳴に近い叫びだったと思う。 

 私だって、甘えたかった、わがままを言いたかった、ふて腐れたかった、親の言うことに逆らいたかった、口ごたえをしたかった。やりたくないとか嫌だとか言いたかった。 
 でもできなかった。 
 我慢してきた。 
 なのに、どうして、どうして、あんただけ!あんただけずるい!許さない! 
 …って、思っていたんだろうな。そうでなければ、あんなにも瞬間的に噴き上がった怒りの、説明がつかない。 

 記憶に、うっすらとあるのは、母が狂乱状態で子供の私を叩いている、叩きながら、「お母さんをこんなに怒らせるなんて(あるいは悲しませるなんて)、憎たらしい子だね!!」って叫んでいること。 
 そんな怒られ方は、小学校高学年くらいからはなくなったので、もっと小さい時の記憶なんだろう。私が、思春期を迎えるころから、母は逆上するような怒り方はしなくなった。「あれ、怒られなくなったな…」という感触が残っているので、記憶は確かだと思う。 
 たぶん、洗脳がきれいに入って、一丁上がり、になったんだろう。そのころの私は、母の「よき相談相手」にすらなっていた。「お母さんが言ってほしい言葉を、全部言ってあげる」、って感じの長女だった。 
 そういう風になることで、生き延びた。 

 私は聞き分けの良い子だったから、親に歯向かったことも、逆らったこともない。一切ない。 
 それでも、ごく小さい時には口答えをしたり、ふくれたりしたこともあり、そのたびに、完膚なきまでに叩き潰された。 
 そしてそのときは、記憶にあるように「こんなに怒らせるお前が悪い!」と罵られるときと、優しく抱きしめながら「あんたが可愛いから怒るんだよ」と言い聞かせるときの2通りだった。 
 この、「あんたが可愛いから怒るんだよ」は、とてもとても甘美な響きで、私にとっては、お母さんが本気で私のことを考えて本気で向き合ってくれて、しっかり愛情を注いでくれている…!と信じ抜くための根拠だったから、長い間、とても大事な宝物のような言葉だった。 
 そして、自分自身も、その言葉を旗印として高々と掲げ、子育てをしてきた。 
 途中、意気揚々とその言葉を披露する私に、「それ、ずいぶんおかしな言い回しだよ」と指摘してくれる人ももちろんいた。でも、何度聞いても、どれだけ詳しく聞いても、「言ってることは、なんとなく、わかるんだけど…」という域から出ることはなかった。

 子供が意のままにならなくて、叱るとき、怒るとき(怒ったっていいと思う、人間だもの)、「あんたが憎くて怒るのじゃない」、と伝えることは、とても大事で、とても正しいことだ。 
 だから、私の母も、それを言いたかったんだろうな、って、昨日の夜、急に思った。 
 お母さん、私たちに、「あんたのことが嫌いで、憎たらしくて怒ってるんじゃないよ」って、そのことを言いたかったんでしょう。 
 だけど、勢い余って、「可愛いから(愛しているから)」をくっつけちゃったの、それは間違いだった。正確に言えば、「から」、が、そこに要らない。 
 だってそれは、「嫌いだから怒る」と、同質のことだから。 
 お母さんから受け取る愛も憎しみもすべて、お母さんのコントロール下にある、お母さんのさじ加減一つ、と思い知らされるだけだから。 

 なんで昨日の夜、突然そこに繋がったかというと、娘が、わざと怒られるようなことをやり、制止してもやめず、ますますエスカレートして、「これ見よがし」がひどくなったのだ。 
 それは、夫に向けてのアピールだったので、私は別室に逃げて閉じこもった娘を迎えに行った。 
 「ちーちゃん。何か嫌な気持ちになって、止まらなくなっちゃったの?」と訊くと、うなずく。それから小さな声で、「ごめんなさい」と言った。 
 「お父さんにも謝れる?」 
 「…なんて言ったらいいの」 
 「一緒に言いに行こう。どうしてあんなに悪い態度を取っちゃったのか、ちゃんと謝らないとね」 
 「うん…」 
  
 私は娘に、こう言った。 
 「お父さんもお母さんも、ちーちゃんのことが嫌いで、憎たらしくて怒ってるんじゃないんだよ。可愛いよ。大好きなんだよ。でも、そういう悪い態度を取られると、お話ができなくて困るよ。だからやめてほしい」 

 言いながら、涙が出た。 
 今まで、「憎たらしくて怒ってるんじゃないよ」「嫌いだから怒ってるんじゃないよ」までは言えたけど、そこと切り離して、「大好きだよ」だけを言うことが、できなかった。 
 どう頑張っても言えなくて、食いしばった歯の奥で、締め付けられる咽喉の奥で、何度も何度も言葉が殺されていった。 
 だけど、「可愛いから怒るんだよ」の、嘘…、というか、ほころびが見えたら、一気に剥がれて、伝えたいことの本質だけをまっすぐに言えた。 

 可愛いから怒るんだよ。 
 そうじゃなかった。  
 可愛いは、可愛い。そこは、どうやっても変わらない、動かない、絶対に消えない。 
 でも、怒ってることには、それはそれで理由がある。 
 今、ちょっとイライラしてたかも。疲れてたかも。  
 そういう悪い言動は、あなたの今後のためには放置できない。 
 ふて腐れて逃げたり、口ごたえばかりしていたら、ちゃんと話ができないから困る。 
 などなど、理由はそのときによっていろいろだ。 
 だから、それを言えばよかったんだ。 

 ひどい理不尽な理由かもしれない。 
 お母さん今ちょうどお腹が空いていてイライラしている!とか。 
 でも、それはそれで伝えて、「だから怒りすぎた、ごめん」もありだと思う。 

 子供が、「私のせいで」「私が悪いから」「私が〇〇だから」って、強く強く強く思い込みすぎることの、悲惨さを考えたら、全然そっちの方がありだと思う。 
 その「〇〇」の中には、「私が愛されているからだ」っていう思い込みだって入る。裏返せばとても怖いことを言われているのに。 

 私が○○だからだ…、私のせいだ…、という呪いを、今、ようやく剥いている最中だから、わかるようになったのかもしれない。 
 きっと母も、その当時には本当に必死で、お母さんなりに頑張って、考えて伝えてくれたことだったんだろうな…と思った。