「甘え」ネガポジ論①

「甘えるのが苦手だ」って、自分のことを、ずーっと思ってきた。そういう自覚はあった。
 でも、その「甘え」に、ネガとポジの2種類があるっていうことを、「はっきり言語化して」認識したことはあまりなかったかもしれない。つまり、「ネガ」の方の甘えについて。

 それは、八つ当たりだったり、ちょっとした意地悪だったり、嫌がらせだったり、しつこい挑発だったり、いじけたりスネたり、毒を吐いてみたり、度の過ぎた泣き言や愚痴を延々と吐き続けたり、よーするに「人が嫌がりそうな行動」をしつつ、チラッチラッとこっち見てる~!みたいな、アレ。

 もう、アレが、私は、虫唾が走るほど大嫌いなんである。
 しかし困ったことに、私はメサイアコンプレックスこじらせおばさんなので、そういう事案に遭遇すると、もう自分の出番!とばかりに張り切る。
 そういうとき、私は、嘘じゃなく、誠心誠意、その「めんどくさいこまったちゃん」に対して、本当に心から役に立ちたいと思い、何か力になれればと祈り、私でよかったら頼ってほしい、と願っている。
 そして、その本当の根本にあった気持ちというのは、最近になってようやく気付いたんだけど、過去にそうやってネガティブな気持ちをわめき散らしてまき散らして吐きまくって転げ回って暴れたかった自分を、癒したかったんだなと。
 その癒しのために、目の前で困っている人を、利用したんだな、って思う。
 そして、もちろん「その人」は「私」ではないので、私の思うようには癒しの過程を辿ってはくれない。
 その筆頭は実母だったんだけど、何回も何回も何百回も何千回も、同じ内容の愚痴を私に吐き散らし、私が心を込めてその毒を受け止め、母は穏やかになって、「ああよかった、やっぱりあずさに聞いてもらってよかった」と笑い、私は幸せな気持ちになって、そしてまた同じことを数限りなく繰り返し続けてきた。
 その構図をそっくりそのまま、私は他人との関係性の中で繰り返し、繰り返して、「何か人の役に立てた自分」みたいな紛い物の像をかぶって、かろうじて、承認欲求を満たそうとしてきたのだと思う。

 そしてもちろん、最終的には、そんな関係性は破綻する。
 なぜなら私が、ある一定量を超えると、バビャーーーン!と嫌になってしまうから。

 ふざっっっっけんじゃねえええ!
 あたしはおめーのゲロ袋じゃねえんだ!!!!!
 …って、なる。
 でもそれは、どう考えても、私が悪いと思う。
 いいよ、いいよ、なんでも吐き出してみて?みたいな顔して寄って行って、自分から進んで袋の口を開けて、そんでそこに想定外の分量と質の(思ってたより悪質な)毒とかをゲベベベーって吐き出されて、ヤメロー!って怒ってるんだからひどい。
 こういうのマッチポンプっていうの?(最近覚えた単語だから使ってみたい)

 そして、どうして私は、その他人のネガの甘えを受け止めきれないんだろう?って思っていた。
 答えは簡単で、2つ。
 1つは、「自分ができないことを、他人がやっていると許せない、怒りが湧く」。
 もう1つは、「他人だから、そこに『愛』はないから」。

 1つ目について。
 私は幼少期から今に至るまで、そういうネガティブな甘え方を他人にしたことが、ほとんどない。親になんてもちろん完全に封印している。それは、2歳下の妹が血みどろになって闘っていたけど、親がそれを受け止めていないのを見ていて…、「ムダなんだな」ってあきらめたからだと思う。
 「せめて私は、お父さんお母さんの言うことを聞いて、楽をさせてあげよう」みたいに感じたことを、うっすら覚えている。そしてそれは、私が親の愛情や注目を得るために選んだ、生き延びるための戦略の一つだったのだけど、まあもちろん歪んでいたのでこうやって今に至るのだけど。
 そして、今になってわかるんだけど、夫もそうだった。子供に無関心な両親、いい子で自慢のお兄ちゃんでいれば可愛がってもらえた日々。
 だから私たち夫婦は、他人の、「甘ったれた愚行」に、厳しい。すごくそのへんの価値観が一致していた。
 私はメサイアコンプレックスを猛烈にこじらせているために、身近な人の「甘ったれた愚行」に不可解な寄り添い方をすることがしばしばあったけど、夫は一貫して厳しかった。
 「嫌ならやめればいい、延々と愚痴を吐き続けて同じ事やってる人って何なの?」
 「いや、そりゃそうだけど、でも、聞いてもらえるだけで楽になれるってこともあるんだよ~」
 っていう、一見、まあよくある会話…みたいなものだけど、でも、その根底に流れているドロドロは結構どす黒かった。
 夫には、自分のネガティブな感情を誰かにそのまま受け止めてもらって安心した、という経験や、感覚が、「ゼロ」。
 私は彼のことを、愚痴を吐かないなんてメンタル強いな~って感心してたんだけど、強いんじゃない、「麻痺」だ。だから、他人の痛みや苦しみも、徹底的に無視。もしうっかり共感したり感応してしまって、自分の中の閉じ込めてきたそういうものが溢れてきたら、恐慌状態だから。

 私も、夫も、お互いに、不機嫌をぶつけあったり、八つ当たりしたり、イライラして嫌な態度を取ったり、そんなことを、したことがない。嫌味を言い合ったこともない。聞えよがしなため息もつかない。喧嘩をしないし、口争いもしない。
 それは、「円満で、仲がいい」っていうのとは違ったんだなと、今、わかる。仲がいいふりをし続けるために、ネガ要素を一生懸命押し込めてきたのだ、協力して。
 いつもいつも笑い合っていたかったから、ぶつかることを避けていたのだ。

 ぶつかり稽古をしないと、強くなれない(力士)。

 2つ目。
 一方的に私を袋と見做して、自分の中のゲロを吐き散らしてくる人との間には、相互に「友情」も「愛情」も、敬意も尊重も、ない。
 だから、関係が破綻するしかない。
 私も、もし相手を「大事な人」だと思っていたならば、「やめて」って言うべきだったのだ。でも言わなかった。別に大事な人なんじゃなくて、自分の癒しのために使おうとしていただけだから。そしてうまく使いこなせなくて嫌になったから。
 そして、相手も…、きっと数限りなくそういう人間関係を繰り返し続けてきたのだろうと思うから(私の母も、今は友達が一人もいない上に、最高に変なモラハラおじさんと再婚してしまった)、プロのカウンセラーなりセラピストなりに、「対価を支払って」「時間を区切って」、そしてプロの技術を持って、話を聞いてもらうのが一番いい。
 プロに聞いてもらうと、「話し方」が変わる。

 相互に、友情や愛情、尊重する姿勢や敬意を持っていれば、話を聞いたり、聞いてもらったり、という関係性は一方通行じゃなくて相互通行になる。
 そういう、類まれにしか構築できない関係性を、mixiで私はたくさん得られているので、マジmixi神。って思っている。

 さて前置きが長くなりました。これ前置きだったの。
 でもすごく長くなったので、本編(子育ての中での甘えネガポジ)は、待て次号!全国200万乙女!