次男の課題、私の課題

 次男の強烈な顔面チックは、唇のあたりがブルブルっと震え、そのまま鼻と目が同時にビクビクと痙攣し、最後は眉とおでこのあたりがコントロールできない風に繰り返し歪む、というのを何秒かごとに繰り返す、というもの。 
 あまりにも風貌が異様に痙攣するのと、頻繁なことで私はすっかり動転してしまった。
 そこまで何のストレスを与えていたのか?と考えてみても、心当たりがない、心当たりがないということは、また知らず知らずのうちに子供を押さえつけたり、きちんと向き合ってないという証拠なんじゃないか…と落ち込んだ。 
 確かに、ここ2~3週間、次男の登校についての動きはだんだん重くなり、気持も弱ってきて、ストレス耐性が一気に落ちていく様子は見えていた。 
 でも、「きちんと見えているし、対応できている」つもりでいたのに…。 

 学校での様子は、正直なところ、年齢よりも相当言動が幼く、はっきり言ってしまえば「問題児化」しつつあるようだった。 
 授業中に騒ぐ、友達にいたずらをする、注意されればエスカレートする、逆切れする、ふて腐れる、逃げる、隠れる、など。あるいは、きつく注意してくる子に対して、言葉では勝てないので、手が出ているようだった。 
 だけど、彼の性格は、そういう攻撃的なタイプではなく、どちらかといえば敏感で繊細な方なので、そういう言動によって友達から非難されたり、仲間に入れなくなることでより傷つき、怖くなり、どうしていいかわからなくなり…という悪循環にはまっているのだということも想像がついた。 
 要するに、「自分の中の葛藤を処理しきれない」、ということに尽きる。 
 やりたくないこと、不本意なこと、我慢しなければならないこと、に対する「耐性」が、極端に弱い。 
 それは、たぶん集団生活を送れなかった2年生の1年間で、大きく後れを取った部分でもあり、家庭内でも、理不尽に抑圧してきたことへの反省から逆方向に針路をとった反動が出ているということも考えられ、彼は「集団の中で、我慢していくこと」の経験を積まなければいけないんだなあと思った。 
 たとえば、クラスの中で彼だけが何かをやらない、やりたくないと大声でアピールする場面などがあったり、ひとりだけ騒いで周りに迷惑をかけたりする…ということがあったりして、周りから非難の集中砲火を浴びたりするらしい。そういうことが、ここのところ頻繁に続いていて、だんだんエスカレートする様子だった。 
 でも、それは、彼が乗り越えなければいけないことだ。 
 「そうかそうか、嫌だったねえ」では、どうにもならないことだ。 
 だけど、実際に本人が傷ついているのは確かなんだから、どうしたらいいのか…と思っていた矢先の、チック症状だったので、「もうこれは落ち着くまでは学校を休ませるしかないのか」と慌てた。 

 ところが、担任の先生と話してみたら、「学校では一切そういう症状は見られない」という。 
 見逃しているということは考えにくい、ものすごくはっきり出るから。 
 じゃあ、何なんだろう、家庭内でのやり方に何か問題があって、出ているんだろうか?と不安になった。子供がこんなに顕著なサインを出すほどに、無自覚にストレスを与えていたんだろうか。 

 折よく、スクールカウンセラーとの面談があったので、このことを相談してみた。 
 回答は明確で、可能性として考えられることは、と前置きしたうえで…、「お父さんやお母さんが、きちんと枠組みを定めて、どーんと受け止めてくれるかどうかを試してると思います」。 
 つまり、「いいことはいい、ダメなものはダメ」という、はっきりした基準や、明確なゆるぎない価値観のようなものを、彼に示せているかどうか? 
 「学校は、行くもの。行きたくない、とか、帰りたいから途中で帰る、というものではなく、朝から放課後まで、きちんと行くのが当たり前である」という、ハードルを、子供の気分や調子によって上げたり下げたりせずに、きちんと保って示し続けているか?ということ(実際に行けるかどうかは別として、基準値を場当たり的に下げないということ)。 
 お父さんやお母さんは、僕が、ふらふら迷ったり、揺れたり、はみ出そうとしたりしたときに、枠と一緒にふらふら揺れたり倒れたりしないかな、どーんと受け止めてくれるかな、はみ出そうとしたときには、「ここまで!」ときちんと示してくれるかな、というのを試しているんじゃないか、と。 

 そう言われてみると、ああ、確かにハードルを勝手に下げていた!と気づく。 
 そうだった。そこは下げてはいけないんだった。 
 無理やり登校させる、とか、嫌がってるものを引きずって行く、とかではなく、「行けないならそれはそれで仕方ない」、ただし、「学校は行くものだ」という大前提は、勝手にふらふらさせてはいけないんだった。 
 子供にしてみたら、ちょっとダダをこねてみたり、具合悪い様子をすれば「じゃあ行かなくていいよ」と言われたり、そうかと思えば頑張れと尻を叩かれたり、混乱するし、それこそが不安の原因だろう。 
 いつの間にか、親の私たちもまた、あの暗い顔つきや、どうにもならない閉塞感を恐れるあまり、「行けるときだけ行けばいいよ、それでも前に比べたら全然頑張ってるよー!」みたいな、都合のいいポジティブ感に逃げていた。 
 どうしても逃げちゃうんだなあ、逃げ腰なんだな。ここは何が何でも踏ん張る…!っていう、足腰の鍛錬が足りてないなあと思わされた。 
 そういう根本的な親の弱さに対する不安が、彼のいろいろなサインとして出てきた可能性はとても高い。 

 「それにしても、突然出てきたと思うんです、今まで大丈夫だったんですが…」と私が言うと、カウンセラーさんは「それはねぇ、お母さんの、幼稚園のバザーが終わったからじゃないですかね」と言った。 
 「子供って、びっくりするくらい、親の様子を見てますからね…、バザーの準備期間までは、頑張ってたんでしょうね。今、この不安をお母さんにぶつけたらお母さんが壊れちゃう、って思ってたんでしょう。実際、壊れたと思いますよー!」 
 「うう…確かに…その通りです…」 
 「子供は、親の器を見てますからね、今だったら出せる!!ってタイミングで出してきたんだと思いますよ。だから踏ん張りどころですね。倒れないようにしっかり押さえてあげてください」 

 ということで、当面の課題は、学校での問題は学校のものとして、親は気を揉んだり先回りして心配しすぎず、先生にお任せする!ただし、細かく情報を共有して、連携は取って行く。 
 家庭では、子供が不安を訴えたり、怖いと言ってきたら、その気持ちには共感しつつ、だからといって、ハードルは下げない。無理強いするのではなく、できないことは仕方ない、と受け止めつつ、「でも、ここまでは越えなければいけないことだよ」という基準値は示し続ける。 
 ということだと認識した。 

 別に、「学校に行くこと」だけが正解ではなく、大義でもなく、唯一の道ではない。 
 でも、人間が社会的動物である以上、大なり小なりの集団生活を送って行くことは避けられず、集団生活上の葛藤や、コミュニケーションの能力によるプラスやマイナスの出来事は必ず訪れる。それは、「どう生きていくか」という問題に密接に関わって来る。 
 そのための練習をする場として、今は、「学校」が彼にとっては最適であるのだから、そのことを親はきちんと信じ、方向性として示してあげなければ、と改めて思った。