落胆の理由

  次男が学校に行けないと、ものすごく落胆してしまう。
 そして、その落胆はどうやったって次男に伝わっているし、浴びせてしまっている。
 次男はきっと、親をがっかりさせているダメな自分、と思って、自分のことを責めているし罪悪感を募らせているだろう。こんなダメな自分は見捨てられる…と不安に思っているだろうな。
 私にはその感情に覚えがある…。
 「こんなダメな自分は親に見捨てられそうで怖い」と、私が妹の前で号泣したのは22歳のときだ(そんなに大きくなってから泣くな!と思うかもしれないが、抑圧されすぎてて自覚できなかったの)。
 妹に、「あんたはいいね、どんなめちゃくちゃなことをやっても、それでも親に愛されて」と。
 ひでえ。と思うけど、しかし妹はほんとにめちゃくちゃだったし、それでも親が手を離してなかった(と私からは見えた)。羨ましかった、ものすごく。私には、そんな風に親にぶつかる勇気はなかったのだ。今もない。だから次男が、いつも「怖い、不安」と訴えることの大半は、見捨てられ不安だと見当はついている。
 見捨てないよ!って思うんだけど、でも、じゃあ、どうして学校に行けないときに私はあんなにもがっかりするのか。
 「学校に行けない君でも、そのままの君が丸ごと大事だよ!」とか言えない。思えない。
 思えないよー、なんでー?ってほんとに苦しい。
 学校なんてどうでもいいし、みんなと同じが必ずしもいいなんて、思ってない!私は!
 でも、本人は、学校に行きたくて、戻りたくて、でも行けない…って苦しんでるから…、行きたいんだったら行かせてあげたい、頑張りたいって思ってるんだから頑張らせてあげたい…!っていう気持ちが、強すぎるのかもしれない。
 自他の境界が私は曖昧で、次男の内部に入り込みすぎてるんだなあ、きっと。感情移入しすぎ。
 次男の人生は次男のもので、私にはどうにもできない。
 どうにもできないんだよ!できないし、やっちゃダメ!こら!って、自分をしっかりしつけないと、ああああ、かわいそう、見てられない~、何とかしてあげなきゃ!って居たたまれなくて躍り上がりそうになり、飛び込んでは、やっぱりダメだった!あ~!思い通りにならねぇ!って怒りに変わるのかも。
 思い通りになるわけなくて、だって他人の人生だから。
 …子供の人生は、私のものとは違う、違うよ、って頭では本当によーくよーくわかっているんだけど、本当に知ってるんだけど、だから普段はそんなに支配的な母ではないの、私は。
 子供の進路や習い事や交友関係にあーだこーだ言ったことはないし、そこはどうでもいい。
 ただ、「子供が可哀想」な状態にある(と私が判断した)とき、はわはわはわ!って泡食って飛び出しちゃう。黙って見届けられない、じっと見守れない。
 可哀想!助けなきゃ!何とかしてあげなきゃ!って焦る。
 でもそれって、自分が自分の不安を抱えきれなくて子供に投げ込んでるだけで、子供本人には何も関係ないことだ。
 なんか、私は、「かわいそうな状態にある人を、守る、助ける」ということで自分を落ち着かせる、一種の依存症だなあ。
 「かわいそうに」が口癖なの。
 おかしいと思ってたんだ。全然かわいそうじゃない状態の人にまで「かわいそうに」って言うの。
 かわいそうだと思いたいんだね、そして助けたいんだな。自分が救われたいんだ。

 次男の、「行きたいけど行けない」が、別にかわいそうでもなんでもないということが急にストーンと腑に落ちた。
 それはただの「状態」で、かわいそうではない。
 困ってるかもしれないが、だったら勝手に感情移入して一喜一憂してないで、合理的な手助けの手段や有効な対策を考えるべきだな。ほんとに助けになりたいなら。
 そして、私はもちろん、ほんとに次男の助けになりたいと願っているので、明日からは、自分の不安感を彼の中に一緒に投げ込んでワーワー言ってないで、自分がやるべきことを落ち着いてできそうな気がする。