春が、また来る②

 次男は、何の問題もなく1年生になり、毎日、本当に楽しそうに学校に通っていた。 
 3月生まれのせいか、喋り方も舌っ足らずで、ちっちゃい身体をランドセルに潰されそうになりながら、頑張っていた。 
 長男の毎日が相変わらず問題ばかりで、目を離せないのに比べて、1年生の次男の方は、学校の準備も一人で出来、忘れ物もしない、宿題もちゃんとやる、テストも満点、何も心配いらなかった。 
 授業参観に行っても、次男はきちんと座り、真面目に授業を聞き、よけいなおしゃべりもしない(3年生の長男を見に行くと、ふらふらと教室の中を歩いていた)。 
 次男は、本当にすごく頑張ってるなあ!と、感心していた。 
 3人の子供のうち、誰よりも動きが激しく、誰よりも高いところに登り、家の中ではつねに、つねに、逆立ちをしているか家具に登っているか鴨居にぶら下がっているかトランポリンを跳んでいるか、食事の最中も座って食べることができず、口の中にモノが入ったままトランポリンを跳びに行き、戻ってきてはまた食べ、もぐもぐしながら鉄棒にぶらさがり…と、とにかく「止まったら死ぬ」みたいな暮らしをしている次男なのに、学校ではこんなにしっかり過ごせるんだ。驚きだった。 
 長男に関してADDという知識を得た私は、次男にももちろん、それを激しく疑った。 
 普通の状態ではない、と、やっぱり乳幼児のころから思っていた。 
 長男には多動の症状がないので、ADHDではなくてADDだろうとアタリをつけていたが、逆に次男には多動の症状「しか」ない。 
 けれど、調べれば調べるほど当てはまりそうな気もするのに、「多動症は、じっと座っていることができない」、これに該当しない。授業中は座っていられるから。 
 日常生活を普通に過ごすことが困難なほど、動き回るし、落ち着きがないのに、これは何なんだろう。多動じゃなかったら何なのか。途方に暮れていた。 
 長男の、上の空で注意力が致命的に欠落しているのを怒りまくっていたのと同様に、次男の、とにかく異常な落ち着きのなさを、朝から晩まで、数分おきに怒鳴りまくっている毎日だった。 
 跳ぶな!走るな!ぶら下がるな!静かにしなさい!やめて!やめなさい!やめなさい!やめ…やめろぉぉぉぉぉ!!!!!(ひっぱたく) 
 この繰り返しだった。 
 叩けばその瞬間はおさまるけど、数分後にはまた異常な動きが始まる。登ってはいけないような場所に、絶対にあり得ないような登り方をして、飛び跳ねて着地、それを延々と続ける。 
 放っておけば確実に、大怪我をするようなことばかりを、何百回注意しても怒っても、やめない。どうしてもやめてくれない。 
 情けなくて涙が止まらなかった。 
 怪我をしてからでは遅いのに、死んだら取り返しがつかないのに、どうしてやめてくれないのか。こんなに頼んでもやめてくれないのか。 
 怒鳴っても叫んでも、泣きながら懇願しても、しまいには私は土下座して「お願いしますからもうやめてください」というところまで追い込まれたのに、それでも次男のバカみたいな動きは収まることはなかった。 
 家ではそういう状態なのに、学校では、休み時間でさえも、危険な行動をしたり、登ってはいけないところに登るようなことは見られないという。 
 体育はやはり得意なようで、楽しそうにしてますけどね~、と、担任のコメントもその程度だった。授業中はきちんと座って、集中して聞いている。 
 ノートを見ると、ものすごく、ものすごく高い筆圧で、彫ったような濃い文字で、抉るみたいにして書いている。 
 ちょっとでも字のバランスが崩れると、神経質に消しゴムで消すが、容易なことでは消えない、それをギッギッギッギッと力を込めて消すと、ノートが破れるほどで、そんなことをやっているうちにどんどん宿題にかかる時間が長くなっていった。 
 「もっと力抜いて書きなよ」と言っても聞き入れず、頑固に、ギリギリとノートに文字を刻みつけていく、鉛筆を握っている指は真っ白だった。 
  
 11月、季節が秋から冬に差し掛かる頃、次男の喘息の発作が出始めた。 
 季節の変わり目だからなあ、と思い、心配しつつ、病院へ連れて行き、薬を飲ませていた。 
 それがだんだん、だんだん悪化していった。 
 咳がひどくて、登校途中で辛くて戻って来る、ということもあった。それが頻繁になってきた。 

 私は、ヒステリーを起こした。 

 次男が1年生になると同時に、娘も幼稚園の年少になっていた。その、通園バスの時間帯と、次男の登校時間がちょうど重なるのだ。 
 もし、次男が、具合が悪くて薬を飲み、ちょっと遅れて登校する、ということになるのならば、学校にその旨を連絡しなければならない。そして親は付き添わなければならない決まりだ。 
 そうなるなら、娘は園バスには乗らず、次男に付き添い登校をした後、娘を幼稚園に送り届けなければならない。あるいは、娘を先に園バスに乗せてしまってから、次男を送って行くことになるか、どちらかだ。 
 いずれにせよ、幼稚園と学校に連絡をする必要があって、特に園バスに乗る/乗らないの判断は数分でしなければならなくて(最初のバス停だったので、時間が早い)、ただでさえ、子供を3人起こして、身支度をさせ、しかもまだ全員手伝ってやらなければならない状態の子供たちで、それに朝ごはんを用意して、食べさせ、登校や登園の準備が整う頃にはもう時間がギリギリすぎるのに、次男は咳が出始め、体調が悪そうにアピールし始め、「ちょっと!!どうするの!薬飲むの!飲むんだったら早くしなさい!バスが!バスがもう来ちゃってるから!!!早く!」と私はほとんど悲鳴のように叫び、どうにもならなくて次男をとりあえず置いて娘を抱えてバス停まで走ると、もうバスが待っていて他の子は乗り込んでいて…、ということが続いた。 
 幼稚園から注意をされ、私は落ち込み、そして次男の咳は悪化し続け、とうとうある日、登校したはずなのに、マンションの階段の下でじーっとうつむいて立っているのを見つけたときには、叫んでしまった。「何やってるの!こんなところで!!」。 

 そのあたりから、1時間目から登校できないことが増えてきた。 
 喘息がつらいので、家で薬を飲み、状態が落ち着いたら登校する、ということが続いた。 
 同時期、娘も喘息の発作を頻繁に起こしていて、夜間救急にかかることも多かったので、自宅用に吸入器を買った。 
 次男は、毎朝、吸入をしてから登校するようになった。それでますます、バスに乗る/乗らないの判断がややこしくなり、間の悪いトラブルが続いた。幼稚園側から一方的に叱責され、腹を立てた私は、「じゃあもういいよ、バスやめるから」と言ってバス通園をやめて、自転車での送迎に切り替えた。そういえば、娘はなぜかバス通園を異様に嫌っていて、毎朝、嫌がるのを無理やり引きずるようにしてバス停に連れて行き、バスに押し込む…みたいな状態だったのだった。 
 毎朝、次男が具合悪くて吸入をしないと歩けないと言い、娘はバスに乗りたくないと泣いて暴れ、1分を争ってバスの時間が迫ってきて、私はパニックになってヒステリーを起こしながらどうにかこうにかやっていた、やれていると思っていたけど、ぶつん、と糸が切れた感じになった。 

 そして、年が明けて、2016年1月、1年生の3学期から、次男は学校に行けなくなった。 
 私も、夫も、次男本人も、何が起きたのかわからなくて、恐怖のどん底だった。 
 どん底だった…、と思っていたそこは、まだまだ入り口のあたりの暗がりに過ぎず、さらに底も何もかも見えない真っ黒な渦にどこまでも飲み込まれていくんだけど、2年前の今頃は、「春になったら、落ち着く、春休みを楽しく過ごせれば気持ちも新しく切り替わる、春から心機一転だ!」と必死に言い聞かせていた。 
 不安と、ぞわぞわする怖さとは裏腹に、日一日と増していく春の明るい気配がアンバランスで、不協和音が皮膚の神経という神経を逆撫でしているような毎日だった。