春が、また来る③

 1年生の3学期をほとんど登校できないまま、次男は春休みを迎えた。 
 担任が何度か家庭訪問をしてくれたり、クラスの子たちから誕生日の寄せ書きを貰ったり(次男は3月生まれ)、そのたびに次男は「明日は行く」「明日は頑張る」と言うものの、朝になると泣いて嫌がり、そのたびに親も混乱し、怯え、怒り、どうにもならないままぐちゃぐちゃに春休みになだれ込んで一息ついた、という感じだった。 

 そしてこの春休みが、大きな転換期だった。 
  
 落ち着いて書けるかどうかまだわからない。でも書いてみる。 
 2年前のことだけど、まだ正直なところ瘡蓋になってないな、ちょっとナマかなって感覚だけど、ナマならナマのまま、それを書き記しておくことにもそれなりの意味はあるだろうから。 

 大阪に住んでいた妹が、2人の子を連れて1週間の長逗留をしてくれた春休みだった。 
 そして、そこで初めて私は、「自分の子育てが間違っている」という事実に直面した。
 …今は、子育てに「正解」とか「間違い」とか、そういうものはない、と思っている。いろいろ経てきた今だからこそ、ようやく本当の意味でそう思っている。でもこのときは、「正しさを求めて頑張ってきた今までの長い年月、必死にやってきた努力の何もかもすべて」が、「完全に失敗だった」という衝撃を受けたので、その衝撃の大きさを忘れないためにも、こういう文脈で書いていこうと思う。 

 その頃、我が家の中は無法地帯だった。何の秩序もなく、ルールもなく、規制もなく、「自立」もなく、「自律」もなかった。 
 あるのは、ただ混乱と、怒号と、暴力だった。 
 コントロールのきかない子供たち。3人は、とてもとても仲が悪く、5分と目が離せなかった。目を離すと、すぐに凄まじい喧嘩が始まり、それは「兄弟喧嘩」という言葉で済ませるにはあまりにも激しく、あまりにも陰険で、見ているだけで抑えようのない怒りと悲しみと情けなさがマグマのように膨れ上がって、私は数分おきに怒鳴っていた。 
 怒鳴るだけでは追いつかないので、手も足も出た。モノにもあたった。気が狂いそうだった。 
 散らかって収拾がつかなくなった部屋の中を、私は子供を怒鳴りながらひっきりなしに片づけて回り、片づけながらも苛立ちが抑えきれなくてヒステリーを起こし、口癖のように「ああもういやだ」「もういやだ、死にたい」とつぶやき、そんな私を子供たちは部屋の隅から暗い顔で睨みつけていた。 
 仲の悪い子供が3人いると、喧嘩やもめごとのパターンや度合いが変わってくる。ABが喧嘩する、ACが喧嘩する、BCが喧嘩する、AB対Cに分かれて揉める、AC対Bで一方的にいじめる、もっともっといろんなパターンで、それも誇張抜きで数分おきにひっきりなしにもめごとが起こり、誰かが泣き、誰かが叫び、殴る蹴るの暴力はもちろん、大事にしているものをわざと壊す、モノを使って叩く、執拗な嫌がらせをする…など、本当にキリがなかった。 
 本当に、本当に、子供たちは全員が仲が悪くて、荒み切っていた。野良犬みたいだった。 
 「基本的な生活習慣のしつけ」どころの話ではなかった。それ以前の状態だった。つねに言いがかりをつけ、からみ、隙あらば暴力を振るう子供たちを、終わりのないもぐらたたきのように私は一日中、片っ端から押さえたり叩いたりして、それだけで終わっていた。ほかのことを何一つできなかった。 
 合間合間の細切れの時間をぬって、家事をしていた。その家事も、何もかも、すべて、どんな細かいことも、私が一人でやっていた。 
 そして、寝かしつけの時間になると、3人の子供が、私の周りを争って喧嘩し、私の上に乗ったり無理やり身体の隙間に割り込んで来たり、私は痛めつけられてボロボロになり、骨の髄から疲れ切っていてうんざりしていて、泣きながら「うるさい!!!早く寝ろ!バカ!いい加減にしろ!!」と叫ぶ始末だった。 
 そういう状態の毎日でも、だからこそなのか、私はパンやお菓子をひっきりなしに作っていて、あれはたぶん、度を越した現実逃避だったと今ならわかる。キッチンカウンターの四角く開いた窓にカーテンをかけて、リビングの様子が見えないようにして、私は自分の城にこもって一人遊びをしていたのだ、そしてしょっちゅう子供が何かを告げ口に来るので、粉だらけの手でリビングに出ていっては、そのとき私が悪いと感じた方の子供を怒り、罵って、終わりにしていた。 

 そして、この大変さのすべては、「年の近い子供が3人いるから」「育てにくい性質の子供が3人いるから」だと思っていた。逃れようがないのだと。 

 周りを見ても、こんなに大変そうにしているお母さんはいない。 
 うちの子は何なんだろう。こんなに私に苦労をかけて…、苦しい、本当につらい。どうしようもない。逃げたい。やめたい。でもやめるわけにいかない。堂々巡りだった。 

 そこに風穴を開けてくれたのは、こんなひどい状況の中に来てくれた妹と、たまたまそのタイミングで遊びに来てくれた友達の2人だった。 
  
 「あっちゃん、やってることおかしいよ。間違ってるよ」 
 と、はっきり、伝えてもらったこと。それが全ての転換点だった。 

 きっかけは、娘が、泊まりに来ていた同い年の従妹に執拗な嫌がらせをして、苛めて、ストレスで高熱が出るまで追い込んだことだった。 
 だけど私も歪み切っていたので、そういうことになってもなお、娘に何か問題があるとは認識できず、まして自分自身の、子供への関わり方が狂っているために子供にそういう悪影響が出ているのだとはゆめにも思わず、何なら「ちょっと喧嘩したくらいでストレスで熱が出るなんて…」ぐらいに感じていたのだから救いようがない。思い出すと自分の愚かさに泣けてくる。でも、このときに本当に泣きたかったのは妹だし、まだ4歳だった姪だし、苦しんだのは当の娘だ。私なんか泣いてる場合じゃないんである。 
 「うちの子供たちは毎日こうやって喧嘩して逞しくやってるよ、打たれ強いよー」ぐらいに思っていた。そして、妹は私にそういう態度で押されたら何も言えない。黙るしかなかった。 
 そこに、たまたま遊びに来てくれた友達が、子供たちの様子を見て、思うところがあったのかメールをくれた。 
 ずいぶんと、言葉を選んで、きっとたくさん考えて、「伝える/伝えない」の選択も含めて、迷った末に届けてくれた言葉だったと思う。 
 伝えてもらえて本当に良かったし、それを受け止めることができる自分で良かった、逆上したり腹を立てたり、聞く耳を持たずに関係をシャットアウトしたりしなくて良かった。 
 だけど、やはり、正面から「あなたのやっていることはおかしいし、間違っているよ」という指摘をされたことは、当時の私には、ずいぶんこたえた。 
 いつも、いつも、「人からどう見られるか」ということを死ぬほど気にして生きているくせに、ほしいものは「承認」だけだった、客観的な正当な評価ではなく、「あなたのやっていることは正しい」という言葉だけがほしかったのだ。 
 承認を、承認だけを貰いたくて、泥のような日常の沼に溺れながら、口をパクパクさせてようやく水面に上がってきたところを、横っ面を張り飛ばされたような衝撃で、死ぬかと思った。 

 妹にそのメールを見せ、そこで初めて妹も、「ああ、お姉ちゃんが間違ってるって言っていいんだ!」と、ようやく思えたのだ。 
 その日から、大阪へ帰るまでの数日間、本当にいろんな話をした。たくさんの忠告をもらった、客観的に見たときに、うちの子供たちがまったく抑制がきかず、幼稚で、乱暴で、わがままであること、親の姿勢や態度、子供への接し方がどれほどおかしいのか、言っていること、やっていることの歪み、思い込み、そして逃避。 
 ひとつひとつを検証していくことは、とても恥ずかしくて、情けない作業だった。 
 泣いた。妹の前でも、なりふりかまってられなくて、床に倒れたまま声を振り絞って泣いたことも何回もあった。 
 でも、泣いてる場合じゃないと思った。 
 心を入れ替えて、今からすぐにできることを何でもやる、と私は言ったし、実際に、その日、その瞬間から変えられることはすぐに取り組んだ。 
 結果が出るどころか、こちらが態度を変えたことで、混乱はさらにひどくなり、ひたすら苦しい状態に落ち込んでいく一方だった。 

 あまりにも辛くて恥ずかしくて苦しくて情けなくて、mixiから完全に気配を消したのがこの頃だった。 
 あっちゃん死んだ?みたいな勢いで突然いなくなったので、ずいぶんいろんな人に心配をかけました。でもたぶん、精神的には、このときに1回死んだんだろうな。