自他を切り離す

 不登校状態の次男は、朝、起きない。

 起こしても起こしても、起こしても起こしても起きない。こっちの心がくじけて、根負けするのを待っているかのように、起きない。
 寝たふり、ではなくて、覚醒しない。
 
 毎朝、定刻に私は、ため息をついて、一度しゃがみこんでから、気合を入れ直して立ち上がり、次男のそばへ行く。
 そして、「遠くにいる人を呼ぶときの音量」で、次男の名前を呼びながら、肩を叩いたり、身体をゆすったりする。
 違う動きや言葉を入れると、ブワァーッ!と怒りが沸騰してしまいそうなので…、「名前を呼ぶ」「朝だよ、おはようと呼びかける」「身体をゆする、軽く叩く」これだけをテンプレートにして、ほかのことは一切やらない。 
 これを、ずーっと、5分以上続ける。
 ダメな時は、いったん離れて、また戻ってきて、5分続ける。
 遠くの人を呼び戻すときの声、だから、かなりの大声。これをずーっと続ける。

 それでも、起きない。

 起きたら、学校に行けと言われるからだとわかっている。
 彼は、「学校に間に合わなくなる時間」まで、寝ていたいのだ。
 でも、そんなわけにはいかない。
 私は呼び続ける、そして、「学校に行く、行かないは関係ないよ、朝は起きるものだよ。おはよう」と言う。
 ようやく目がかすかに動く。すかさず呼びかけの声を大きくして、完全に覚醒したところで、リビングまで連れて行く。おんぶのときもあれば、抱っこのときもある。2年生なんだから、それはもういいことではない、と思いながら、「まずは起きてもらうことが先だから」と言い訳する。
 起きて「もらう」、っていうのがそもそも間違っているんだけど。

 起きる、起きないは子供の問題。
 起きないことで遅刻して、困るのは子供。
 子供は、自分のやったことで、どういう結果になるかを引き受けなければならない。そうすることでしか、覚えない。

 …って、いろんな本で読んだ。頭では理解できる。でも気持ちがついていかない。

 何とか起きてもらって、そして朝ごはんを用意して、無事に食べさせて、そしてそこから、毎朝、「登校させるため」のひと悶着が起きる。

 これも、登校「させよう」と必死になる時点で、問題の本質じゃない、ということはわかっている。
 登校「する」のは本人だ。

 でも、学校に行けない子供と、陰鬱な気持ちで一日過ごすのは、もう、ほんと、きつい。

 今朝、次男は、どうやってもどう頑張っても、起きなかった。
 起きない、と頑張る力の方が、私の精神力を上回っていた。
 私は、頭の中で、ぶっちーーー…ん…!と何かが切れる音を、聞いた。

 「いい加減にしろーーーーーっ!起こしたら1回で起きろ!!!!こっちは忙しいんだから、お前を起こすためだけに毎朝毎朝毎朝20分も30分も時間を使ってられないわ!さっさと起きて用意して、学校に行け!いい加減に学校に行け!!!!」
 って、襟首掴んで引きずり起こして、怒鳴りまくっている映像が目の裏側で赤く点滅した。

 うわー、私、怒ってるわー。怒っちゃってるもんなー。
 と思って、いったんその場を離れた。

 何で腹が立つのか?と考えた。

 私は、何をしたいのか。
 目指しているゴールは、「次男が自分で、さっと起きること」だ。
 じゃあそのために、「怒鳴る、怒りに任せて暴力をふるう、威嚇する」などの行動は、有効な手段だろうか?
 そんなわけない。むしろ逆効果だ。
 「目指しているゴール」に辿り着かない手段であるならば、却下。必要ない。

 その結論にはすぐにたどり着いたけど、いや、わかってるけど、わかってるけど、この、この怒りがさー!収まらないんだよー!っていうハアハアは残った。
 だったら何に怒ってるのか?
 頑張ってるのに、報われないことに対して苛立っている。
 頑張っているというのは、何を頑張っているのか?
 次男を時間通りに起こすこと。起こして、学校に行かせること。起きないことを学校に行かないいい訳として使われたくない。そこは潰しておきたい。
 という、気持ち。
 でも、だったら、私がそこを頑張ったら、次男は学校に行くのか?
 違うな。それも違う。
 私が頑張ることと、次男が頑張ることは、イコールではない。つながりはしない。関係ない。
 だから、「私が頑張ることではない」。

 そうか、「私が頑張ることではない」。

 この前気づいたばかりだけど、私は、子供の問題に自分が感情移入しすぎて、自分の不安を解消するために動いているところが、多分にある。
 これもそうだ。
 起きない子供、に、ものすごく気持ちをかき乱されるけど、落ち着いて、たどり着きたいゴールから逆算すれば、自分がやるべきことが見えてくる。
 そしてそれは、ごくわずかだ。

 私は次男を放っておくことにした。
 「もう7時半だからね。起きられるようになったら自分で起きておいでね」と声をかけて離れた(「見放された」と思われないため)。
 そのあとは、次男のことを忘れて、長男と娘の朝食の世話をしたり片づけをしたり、穏やかな気持ちで家のことができた。手放しちゃえばいいんだ。

 長男が登校した後、8時半頃にようやく次男が起きてきた。「お母さんおはよう…」。
 「おはよう。今から幼稚園の送りと、そのあとの買い物があるから、帰ってくるのは9時半になるよ。だから朝ごはんはそのときね」
 そして私は娘を幼稚園に送り、用事を済ませて帰宅して、次男に朝食を用意した。
 学校には行けるような顔つきじゃないので、一応訊くだけは訊いたけど、無理に押しても無理なものは無理なので、そこはもう頑張らなかった。
 頑張るのは私じゃない。
 そして、次男が頑張るために必要なのは、無理やりな圧力じゃない。

 朝食を済ませた後は、次男にリビングで自習をするように言い(登校できない日は自宅学習をする)、私は別室で調べ物をしたり、マンションの管理人業務の整理をしたりしていた。
 途中、珈琲を淹れに台所に立ったら、リビングの次男が私の気配をうかがっているような、なんとなくそんな様子を感じたので、呼びかけた。
 「将吾、お母さん、怒ってないからね?」
 目を上げた次男は、泣きそうな、困ったような、何かをこらえているような顔をしていた。
 「お母さん怒ってないから。将吾のこと、心配してるけど、でも怒ってないよ。大丈夫だよ」
 次男は、泣いてるような顔でかすかに笑って、「うん」と小さく言った。

 今まで、どうしても、どうやっても、次男が学校に行けない日は苛立ちでいっぱいで、怒りもあり、焦りもあった、落胆も、悔しさも、そして悲しみも溢れて、それはため息になって何度も何度も出てきた。
 食いしばった歯の奥から、恨み言がギリギリとこぼれ出て、噛み殺しても噛み殺しても漏れて、どうしようもなくて涙がいっぱい出た。
 娘を送る幼稚園までの道、自転車を飛ばしながら声を上げて泣いたこともある。
 どんなに我慢しても耐えようとしても、抑えきれなくて、そんな私の気配を、次男は敏感な子だから全身で感じて、居たたまれなかっただろうなと思う。
 だけど、どうすることもできなかったのだ。
 
 きっと、明日からも次男は起きなくて、学校にも行けなくて、先の見えない日は続くんだろう。

 でも私は、もう、自分が勝手に頑張って、それが結果に結びつかないことで苛立って、その不安をさらに子供にぶつける(あるいはぶつけまいとして死ぬ思いで我慢する)ことは、ないような気がする。
 ちょっと、切り離せた感じがある。

 切り離したり、手放したりすることと、「諦める」ことって、きっと本質的には同じなんだろうな。
 勇気がいるな~。