春が、また来る①

娘が、春から1年生になる。 
 そして1年生という区切りの年齢は、私と子供たちにとって、ひとつの大きな試練になるんだと思う。 

 長男のときも、次男のときも、「1年生」という時期はものすごい嵐だった。 
 心臓が握り潰されるような感覚を忘れることはない。生きながら死んでるみたいだった。 
 きっと、私が、手を放すのが早かったんだ。 
 それは「時期尚早」という意味ではなくて、子供の準備が整う前に、親子の共通認識が出来上がる前に、同時に「いい?じゃあ、放すよ!せーの!」ということをせずに、とにかく一方的に、一刻も早く、早く楽になりたくて、もう持ちこたえることができなくて、「ああもう無理、無理だから!」という悲鳴と同時に、ほぼ放り投げるように手を放した、という感じに近い。 
 手を放した、んじゃなくて、投げ出した。 
 そして、投げ出したから、怖くて、直視しなくなった。 
 ほかにも見なければいけないものはたくさんあった、手のかかる下の子のこともあった、いろいろな言い訳なら、いくらでも、いくらでも湧いて出てきた。 
 だから、小学校1年生になった子供のことは、「もう知らない」、という感じに近かった。 

 ひとりで、3人、両手に抱えて、本当に本当につらくて、苦しかったから、重たかったから、もう手が痺れて肩も外れそうで、これ以上持っていることができなかったから。 
 なのに、やっとのことで放り出した長男は、1年生になっても、死ぬほど手がかかり、意味不明さに磨きがかかり、まともに学校生活を送ることなんてできなかった。 
 何度も何度も何度も注意しても注意しても注意しても、何もかも直らず、毎日、毎時間、毎分、毎秒、同じことを、同じことばかりを、怒鳴っても叫んでも彼には届かず、委縮して、反省したように見えて、また数分後には同じ失敗を仕出かし、手のかかる2歳児のイヤイヤと、ちょっとおかしい幼稚園のいろいろなめんどくさいものごとと、毎日の送り迎えと、その合間合間に、何一つまともには自分一人で出来ない小学生の絶え間ないトラブルが降り注ぎ、叫びすぎて目の前が何度もブラックアウトしたし、ああ、私は脳の血管が切れて耳や鼻から血を噴き出して死ぬんだなと思ったことも一度や二度ではなかった。 
 そのころ私には、ADHDの知識が全くなかった。 
 うっすらとは知っていたし、「きっとこの子は何かオカシイ」と思ってはいたけど、そのことに正面から向き合おうとはしていなかった。 
 毎日、文字通り朝から晩まで私に怒鳴られ続け、罵られ、長男はどんどん様子がおかしくなり、私に寄り付かなくなった。 
 そして私は、そのことに、ああ清々する!!と心の底から思っていた。 
 あー、ようやく、ひとり減った!ひとり離れた!くっつかなくなってきた、ああ清々する。さっさと他の2人も離れてほしい。ああ、もう嫌だ嫌だ嫌だ、全員大嫌い、もう私は一人になりたい、もう嫌だ。 
 って、ブツブツと唇から漏れるほどに、何もかもに疲れ切ってボロボロだった。 
 長男との関係はどんどん悪化していく一方で、私は「この子の顔を見るのも嫌!!!」っていう状態になっていた。 
 憎かった。 
 言うことを聞かない、何度注意しても直らない、フラフラして上の空で、こんなに私を苦しめて、憎たらしくて、顔を見るのも、触るのも嫌だった。 

 その状態から…、私が意を決して、「悪循環を断ち切る」って決めて、ようやく立ち上がったのは1年生の冬だった。 
 
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「衝突する私たち②」 
  
 それから、私と長男の関係は少しずつ、少しずつ良くなっていき、2年生の終わりごろにやっと私は、「この子には適したケアが必要なんじゃないか」と思い至り、スクールカウンセラーとの面談を経て、「確定ではないけど、グレーゾーンにあるADDだと思う」と言われた。安心したのを覚えている。 
 ああ、状態が理解できた、対処法もわかる、「やるべきことがある」んだ。だったら、できる、やれる、と思って、本当に安心した。 
 注意欠陥障害にまつわる本もたくさん読んで、ものすごく勉強した。怒鳴ったり叫んだりすることがなくなり(無意味かつ有害であるということが理解できたので)、ようやく、生産性のある対応ができるようになった。 
 私は、長男の特性をよく理解し、対策を立てることができた。 
 彼がパニックや混乱に陥らないように先回りして状態を整えることに心をくだき、頭ごなしに決めつけたり命令したりせずに、彼の理解が追いつくまで待ち、こだわりが強く我慢ができず譲れない長男がキーキーギャーギャーしないように、要求は今までにも増して通すようにした。 
 そして、長男が3年生、次男が1年生、という日々が、一見穏やかに過ぎていった。

春が、また来る④

 2年前の春に、一番目についた問題は、次男も娘も、おもに怒りの感情の抑制がまったくできない、ということだった。 
 でもそれは、今だから振り返ってそう分析できるのであって、当時は、その2人の問題の根っこが同じだとは思っていなかったし、ましてやそれが「私自身が怒りをきちんと扱えていないせいだ」なんて、そこに繋がるなんてまったく思いもしないことだった。 

 春休みの間に、妹と、私と、子供たち5人で、友達に会いに行こうと出かけたことがあった。 
 バスに乗り、電車を乗り継いで、新宿御苑に行く。という、ただそれだけのことなのに、地獄のようなことになった。巻き込んだ妹家族には本当に申し訳なかった。 
 次男は、家を出るときに「靴が気に入らない」と暴れ、行かないと言い張って全力で抵抗し、何とか気を取り直してようやく出発したら「ガムを2個食べたい」と言い出し、「ダメ、1個だけだよ」と答えたそれが地雷を踏みぬいて、めちゃくちゃに道を走って逃げだしたのだ。 
 出発の時間も、約束の時間も迫っているのに、道路を走って逃げる次男を追いかけ、物陰に隠れているのを捕まえ、引きずり出し、暴れて抵抗するのを怒鳴って押さえつけて、襟首をつかみ上げて歩きながら涙が出てきた。 
 ようやくのことでバスに乗せ、駅について電車に乗り継ぐまでの間に、次男はまた脱走した。車通りの多い道を、バス通りを、やみくもに走って逃げた。 
 私は荷物も何もかも道路にぶん投げて必死で走った。ようやく捕まえた。暴れるのを羽交い絞めにしながら荷物のように運んだ。その間、妹と2人の子供は呆然と待っていた。私の子供2人は、他人事みたいな顔つきで立っていた。 
 電車に乗ってしばらくたってから、次男はようやく落ち着いて、「お母さん、ごめんなさい」と言った。 
 ごめんなさいは、お母さんの方だったよねえ、って今本当に思う。何を思い出しても、どの場面を思い出しても、追い詰められていた子供の気持ちが今ならはっきりわかるから、泣けてどうしようもない。 
 新宿御苑で友達に会う頃には、子供たちは落ち着いていたから、なんとか笑顔で過ごせた。帰り道がどうだったのか、記憶にない。でも、何か小さなもめごとはいっぱいあったように思う。 

 そして迎えた新学期の初日、次男の荒れ方は凄まじかった。 
 何をどうやっても起きず、布団の中で石になったように動かなかった。 
 「1年生を迎える会」が、始まってしまう。2年生は、歌と演奏がある。行かなきゃいけないのに。 
 どんどん時間が過ぎていく。布団に貼りついたようになっている次男に馬乗りになって、パジャマを脱がそうとする、抵抗する、無理やり脱がそうとする、暴れる、そのさなかに電話が鳴り、それは担任からで、「時間になっても登校しないので…、どうですか」と訊いてくる。 
 私は、「すみません、行かせようとして、今の今まで格闘してたんですが、間に合わなくてすみません」と泣いた。 
 「や、いいですいいです、そういうことでしたら、無理しないでください、今日のところは、お兄ちゃんに連絡帳やお手紙を持たせますので」と電話は切れ、もう登校する(させる)必要から解放された私は呆然として座り込み、次男は固く目をつぶって布団に潜り込んだ。 
 何か憎々しげに言葉をかけたと思うけど、覚えていない。憎たらしいと感じた気持ちだけを覚えている。  
 こんなに一生懸命頑張っている私に抵抗した。言うことを聞かなかった。思い通りにならなかった。恥をかかせた。嫌なことから逃げて、怠けている。ズルい。憎たらしい。 
 そんなどす黒い、ねばねばした暗い重い泥のようなものが、のどいっぱいに込み上げてきて、息をするたびに、ゴボ、ゴボと溢れてくるようだった。そしてこの黒い泥は、ここから先、本当に長いこと私の中から汲んでも汲んでもキリがなく溢れてきた。 

 この日を境にして、次男は、まったく学校に行けなくなった。 
 学校に行くどころか、「靴を履く」ということができない。靴は、学校に行くことの連想に繋がるからだ。 
 サンダルばかり履いた。靴下も、靴も、怖いのだ。 
 牛乳を一切飲めなくなった。学校を思い出すから。 
 そして、家族と同じ皿から料理を取って食べることが一切できなかった。ペットボトルの回し飲みなんか冗談じゃなく、コップも誰かの口がついたもの、それどころか「飲んだかもしれないもの」ですら、パニックになるほど拒否した。洗ってもダメだった。誰かの箸がついたかもしれない皿、食べたかもしれない料理、何もかもを潔癖に避け、やはりその様子は異常だった。 
 春休みに見せたように、些細な、よくわからない理由で突然スイッチが入り、怒りを爆発させて、家具の裏に隠れたり、暴れたりした。押入れの中板が外れそうになるほど激しく蹴り続けたり、クローゼットの扉を何か固いもので殴り続けたり、ドアを何度も何度も、何度も、何度も蹴ったり、頭を打ちつけたりした。一度そうなると2時間は続く。一番長かったときは3時間かかった、そのときは夫も家にいて、私と夫は交代で次男を見張って(流血沙汰にならないように)、言葉を替えて説得したり𠮟りつけたり、なだめたりすかしたり、脅したり、いろいろしたけど3時間状況は変わらなかった。 
 次男の顔つきはものすごく、目は、暗く落ちくぼんでまったく光がなく、虚無そのもので…、ああ、この子は私のことを完全に拒否している、どんな言葉も何もかもこの子には届かないんだ、とはっきり思い知らされた。 
 自分の子供に、完全に拒否される、ということの、凄まじい絶望。 
 今まで、そんな絶望に直面したことがなかった。差し伸べた手にもつかまろうとせず、「おまえたちになんか何を言ったってどうせムダなんだ」とあきらめきって、ぐったりしている子供。 

 この様子を見て、ようやく、初めて、私と夫は、「学校に行くとか行かないとか、そういうことじゃないんじゃないか…、大変なことになってるんじゃないか」と思った。 
 「この子は病んでしまっている」、と気づいた。 

 「学校に行けない、というのは、『結果』でしかない、その前にこの子の病んでしまっている状態を治してあげなければ。治れば、健全になれば、その結果としてまた学校に行けるようになる」と思った。 
 それは、ある意味では正しく、しかし本質的な部分では大きく間違っていた。 
 病んでいて、治さなければならなかったのは、「子供」ではなく、「親の私たち」だったのだから。 
 そのことに気づくまでには、またずいぶんと長い回り道が必要だった。 

春が、また来る③

 1年生の3学期をほとんど登校できないまま、次男は春休みを迎えた。 
 担任が何度か家庭訪問をしてくれたり、クラスの子たちから誕生日の寄せ書きを貰ったり(次男は3月生まれ)、そのたびに次男は「明日は行く」「明日は頑張る」と言うものの、朝になると泣いて嫌がり、そのたびに親も混乱し、怯え、怒り、どうにもならないままぐちゃぐちゃに春休みになだれ込んで一息ついた、という感じだった。 

 そしてこの春休みが、大きな転換期だった。 
  
 落ち着いて書けるかどうかまだわからない。でも書いてみる。 
 2年前のことだけど、まだ正直なところ瘡蓋になってないな、ちょっとナマかなって感覚だけど、ナマならナマのまま、それを書き記しておくことにもそれなりの意味はあるだろうから。 

 大阪に住んでいた妹が、2人の子を連れて1週間の長逗留をしてくれた春休みだった。 
 そして、そこで初めて私は、「自分の子育てが間違っている」という事実に直面した。
 …今は、子育てに「正解」とか「間違い」とか、そういうものはない、と思っている。いろいろ経てきた今だからこそ、ようやく本当の意味でそう思っている。でもこのときは、「正しさを求めて頑張ってきた今までの長い年月、必死にやってきた努力の何もかもすべて」が、「完全に失敗だった」という衝撃を受けたので、その衝撃の大きさを忘れないためにも、こういう文脈で書いていこうと思う。 

 その頃、我が家の中は無法地帯だった。何の秩序もなく、ルールもなく、規制もなく、「自立」もなく、「自律」もなかった。 
 あるのは、ただ混乱と、怒号と、暴力だった。 
 コントロールのきかない子供たち。3人は、とてもとても仲が悪く、5分と目が離せなかった。目を離すと、すぐに凄まじい喧嘩が始まり、それは「兄弟喧嘩」という言葉で済ませるにはあまりにも激しく、あまりにも陰険で、見ているだけで抑えようのない怒りと悲しみと情けなさがマグマのように膨れ上がって、私は数分おきに怒鳴っていた。 
 怒鳴るだけでは追いつかないので、手も足も出た。モノにもあたった。気が狂いそうだった。 
 散らかって収拾がつかなくなった部屋の中を、私は子供を怒鳴りながらひっきりなしに片づけて回り、片づけながらも苛立ちが抑えきれなくてヒステリーを起こし、口癖のように「ああもういやだ」「もういやだ、死にたい」とつぶやき、そんな私を子供たちは部屋の隅から暗い顔で睨みつけていた。 
 仲の悪い子供が3人いると、喧嘩やもめごとのパターンや度合いが変わってくる。ABが喧嘩する、ACが喧嘩する、BCが喧嘩する、AB対Cに分かれて揉める、AC対Bで一方的にいじめる、もっともっといろんなパターンで、それも誇張抜きで数分おきにひっきりなしにもめごとが起こり、誰かが泣き、誰かが叫び、殴る蹴るの暴力はもちろん、大事にしているものをわざと壊す、モノを使って叩く、執拗な嫌がらせをする…など、本当にキリがなかった。 
 本当に、本当に、子供たちは全員が仲が悪くて、荒み切っていた。野良犬みたいだった。 
 「基本的な生活習慣のしつけ」どころの話ではなかった。それ以前の状態だった。つねに言いがかりをつけ、からみ、隙あらば暴力を振るう子供たちを、終わりのないもぐらたたきのように私は一日中、片っ端から押さえたり叩いたりして、それだけで終わっていた。ほかのことを何一つできなかった。 
 合間合間の細切れの時間をぬって、家事をしていた。その家事も、何もかも、すべて、どんな細かいことも、私が一人でやっていた。 
 そして、寝かしつけの時間になると、3人の子供が、私の周りを争って喧嘩し、私の上に乗ったり無理やり身体の隙間に割り込んで来たり、私は痛めつけられてボロボロになり、骨の髄から疲れ切っていてうんざりしていて、泣きながら「うるさい!!!早く寝ろ!バカ!いい加減にしろ!!」と叫ぶ始末だった。 
 そういう状態の毎日でも、だからこそなのか、私はパンやお菓子をひっきりなしに作っていて、あれはたぶん、度を越した現実逃避だったと今ならわかる。キッチンカウンターの四角く開いた窓にカーテンをかけて、リビングの様子が見えないようにして、私は自分の城にこもって一人遊びをしていたのだ、そしてしょっちゅう子供が何かを告げ口に来るので、粉だらけの手でリビングに出ていっては、そのとき私が悪いと感じた方の子供を怒り、罵って、終わりにしていた。 

 そして、この大変さのすべては、「年の近い子供が3人いるから」「育てにくい性質の子供が3人いるから」だと思っていた。逃れようがないのだと。 

 周りを見ても、こんなに大変そうにしているお母さんはいない。 
 うちの子は何なんだろう。こんなに私に苦労をかけて…、苦しい、本当につらい。どうしようもない。逃げたい。やめたい。でもやめるわけにいかない。堂々巡りだった。 

 そこに風穴を開けてくれたのは、こんなひどい状況の中に来てくれた妹と、たまたまそのタイミングで遊びに来てくれた友達の2人だった。 
  
 「あっちゃん、やってることおかしいよ。間違ってるよ」 
 と、はっきり、伝えてもらったこと。それが全ての転換点だった。 

 きっかけは、娘が、泊まりに来ていた同い年の従妹に執拗な嫌がらせをして、苛めて、ストレスで高熱が出るまで追い込んだことだった。 
 だけど私も歪み切っていたので、そういうことになってもなお、娘に何か問題があるとは認識できず、まして自分自身の、子供への関わり方が狂っているために子供にそういう悪影響が出ているのだとはゆめにも思わず、何なら「ちょっと喧嘩したくらいでストレスで熱が出るなんて…」ぐらいに感じていたのだから救いようがない。思い出すと自分の愚かさに泣けてくる。でも、このときに本当に泣きたかったのは妹だし、まだ4歳だった姪だし、苦しんだのは当の娘だ。私なんか泣いてる場合じゃないんである。 
 「うちの子供たちは毎日こうやって喧嘩して逞しくやってるよ、打たれ強いよー」ぐらいに思っていた。そして、妹は私にそういう態度で押されたら何も言えない。黙るしかなかった。 
 そこに、たまたま遊びに来てくれた友達が、子供たちの様子を見て、思うところがあったのかメールをくれた。 
 ずいぶんと、言葉を選んで、きっとたくさん考えて、「伝える/伝えない」の選択も含めて、迷った末に届けてくれた言葉だったと思う。 
 伝えてもらえて本当に良かったし、それを受け止めることができる自分で良かった、逆上したり腹を立てたり、聞く耳を持たずに関係をシャットアウトしたりしなくて良かった。 
 だけど、やはり、正面から「あなたのやっていることはおかしいし、間違っているよ」という指摘をされたことは、当時の私には、ずいぶんこたえた。 
 いつも、いつも、「人からどう見られるか」ということを死ぬほど気にして生きているくせに、ほしいものは「承認」だけだった、客観的な正当な評価ではなく、「あなたのやっていることは正しい」という言葉だけがほしかったのだ。 
 承認を、承認だけを貰いたくて、泥のような日常の沼に溺れながら、口をパクパクさせてようやく水面に上がってきたところを、横っ面を張り飛ばされたような衝撃で、死ぬかと思った。 

 妹にそのメールを見せ、そこで初めて妹も、「ああ、お姉ちゃんが間違ってるって言っていいんだ!」と、ようやく思えたのだ。 
 その日から、大阪へ帰るまでの数日間、本当にいろんな話をした。たくさんの忠告をもらった、客観的に見たときに、うちの子供たちがまったく抑制がきかず、幼稚で、乱暴で、わがままであること、親の姿勢や態度、子供への接し方がどれほどおかしいのか、言っていること、やっていることの歪み、思い込み、そして逃避。 
 ひとつひとつを検証していくことは、とても恥ずかしくて、情けない作業だった。 
 泣いた。妹の前でも、なりふりかまってられなくて、床に倒れたまま声を振り絞って泣いたことも何回もあった。 
 でも、泣いてる場合じゃないと思った。 
 心を入れ替えて、今からすぐにできることを何でもやる、と私は言ったし、実際に、その日、その瞬間から変えられることはすぐに取り組んだ。 
 結果が出るどころか、こちらが態度を変えたことで、混乱はさらにひどくなり、ひたすら苦しい状態に落ち込んでいく一方だった。 

 あまりにも辛くて恥ずかしくて苦しくて情けなくて、mixiから完全に気配を消したのがこの頃だった。 
 あっちゃん死んだ?みたいな勢いで突然いなくなったので、ずいぶんいろんな人に心配をかけました。でもたぶん、精神的には、このときに1回死んだんだろうな。 

春が、また来る②

 次男は、何の問題もなく1年生になり、毎日、本当に楽しそうに学校に通っていた。 
 3月生まれのせいか、喋り方も舌っ足らずで、ちっちゃい身体をランドセルに潰されそうになりながら、頑張っていた。 
 長男の毎日が相変わらず問題ばかりで、目を離せないのに比べて、1年生の次男の方は、学校の準備も一人で出来、忘れ物もしない、宿題もちゃんとやる、テストも満点、何も心配いらなかった。 
 授業参観に行っても、次男はきちんと座り、真面目に授業を聞き、よけいなおしゃべりもしない(3年生の長男を見に行くと、ふらふらと教室の中を歩いていた)。 
 次男は、本当にすごく頑張ってるなあ!と、感心していた。 
 3人の子供のうち、誰よりも動きが激しく、誰よりも高いところに登り、家の中ではつねに、つねに、逆立ちをしているか家具に登っているか鴨居にぶら下がっているかトランポリンを跳んでいるか、食事の最中も座って食べることができず、口の中にモノが入ったままトランポリンを跳びに行き、戻ってきてはまた食べ、もぐもぐしながら鉄棒にぶらさがり…と、とにかく「止まったら死ぬ」みたいな暮らしをしている次男なのに、学校ではこんなにしっかり過ごせるんだ。驚きだった。 
 長男に関してADDという知識を得た私は、次男にももちろん、それを激しく疑った。 
 普通の状態ではない、と、やっぱり乳幼児のころから思っていた。 
 長男には多動の症状がないので、ADHDではなくてADDだろうとアタリをつけていたが、逆に次男には多動の症状「しか」ない。 
 けれど、調べれば調べるほど当てはまりそうな気もするのに、「多動症は、じっと座っていることができない」、これに該当しない。授業中は座っていられるから。 
 日常生活を普通に過ごすことが困難なほど、動き回るし、落ち着きがないのに、これは何なんだろう。多動じゃなかったら何なのか。途方に暮れていた。 
 長男の、上の空で注意力が致命的に欠落しているのを怒りまくっていたのと同様に、次男の、とにかく異常な落ち着きのなさを、朝から晩まで、数分おきに怒鳴りまくっている毎日だった。 
 跳ぶな!走るな!ぶら下がるな!静かにしなさい!やめて!やめなさい!やめなさい!やめ…やめろぉぉぉぉぉ!!!!!(ひっぱたく) 
 この繰り返しだった。 
 叩けばその瞬間はおさまるけど、数分後にはまた異常な動きが始まる。登ってはいけないような場所に、絶対にあり得ないような登り方をして、飛び跳ねて着地、それを延々と続ける。 
 放っておけば確実に、大怪我をするようなことばかりを、何百回注意しても怒っても、やめない。どうしてもやめてくれない。 
 情けなくて涙が止まらなかった。 
 怪我をしてからでは遅いのに、死んだら取り返しがつかないのに、どうしてやめてくれないのか。こんなに頼んでもやめてくれないのか。 
 怒鳴っても叫んでも、泣きながら懇願しても、しまいには私は土下座して「お願いしますからもうやめてください」というところまで追い込まれたのに、それでも次男のバカみたいな動きは収まることはなかった。 
 家ではそういう状態なのに、学校では、休み時間でさえも、危険な行動をしたり、登ってはいけないところに登るようなことは見られないという。 
 体育はやはり得意なようで、楽しそうにしてますけどね~、と、担任のコメントもその程度だった。授業中はきちんと座って、集中して聞いている。 
 ノートを見ると、ものすごく、ものすごく高い筆圧で、彫ったような濃い文字で、抉るみたいにして書いている。 
 ちょっとでも字のバランスが崩れると、神経質に消しゴムで消すが、容易なことでは消えない、それをギッギッギッギッと力を込めて消すと、ノートが破れるほどで、そんなことをやっているうちにどんどん宿題にかかる時間が長くなっていった。 
 「もっと力抜いて書きなよ」と言っても聞き入れず、頑固に、ギリギリとノートに文字を刻みつけていく、鉛筆を握っている指は真っ白だった。 
  
 11月、季節が秋から冬に差し掛かる頃、次男の喘息の発作が出始めた。 
 季節の変わり目だからなあ、と思い、心配しつつ、病院へ連れて行き、薬を飲ませていた。 
 それがだんだん、だんだん悪化していった。 
 咳がひどくて、登校途中で辛くて戻って来る、ということもあった。それが頻繁になってきた。 

 私は、ヒステリーを起こした。 

 次男が1年生になると同時に、娘も幼稚園の年少になっていた。その、通園バスの時間帯と、次男の登校時間がちょうど重なるのだ。 
 もし、次男が、具合が悪くて薬を飲み、ちょっと遅れて登校する、ということになるのならば、学校にその旨を連絡しなければならない。そして親は付き添わなければならない決まりだ。 
 そうなるなら、娘は園バスには乗らず、次男に付き添い登校をした後、娘を幼稚園に送り届けなければならない。あるいは、娘を先に園バスに乗せてしまってから、次男を送って行くことになるか、どちらかだ。 
 いずれにせよ、幼稚園と学校に連絡をする必要があって、特に園バスに乗る/乗らないの判断は数分でしなければならなくて(最初のバス停だったので、時間が早い)、ただでさえ、子供を3人起こして、身支度をさせ、しかもまだ全員手伝ってやらなければならない状態の子供たちで、それに朝ごはんを用意して、食べさせ、登校や登園の準備が整う頃にはもう時間がギリギリすぎるのに、次男は咳が出始め、体調が悪そうにアピールし始め、「ちょっと!!どうするの!薬飲むの!飲むんだったら早くしなさい!バスが!バスがもう来ちゃってるから!!!早く!」と私はほとんど悲鳴のように叫び、どうにもならなくて次男をとりあえず置いて娘を抱えてバス停まで走ると、もうバスが待っていて他の子は乗り込んでいて…、ということが続いた。 
 幼稚園から注意をされ、私は落ち込み、そして次男の咳は悪化し続け、とうとうある日、登校したはずなのに、マンションの階段の下でじーっとうつむいて立っているのを見つけたときには、叫んでしまった。「何やってるの!こんなところで!!」。 

 そのあたりから、1時間目から登校できないことが増えてきた。 
 喘息がつらいので、家で薬を飲み、状態が落ち着いたら登校する、ということが続いた。 
 同時期、娘も喘息の発作を頻繁に起こしていて、夜間救急にかかることも多かったので、自宅用に吸入器を買った。 
 次男は、毎朝、吸入をしてから登校するようになった。それでますます、バスに乗る/乗らないの判断がややこしくなり、間の悪いトラブルが続いた。幼稚園側から一方的に叱責され、腹を立てた私は、「じゃあもういいよ、バスやめるから」と言ってバス通園をやめて、自転車での送迎に切り替えた。そういえば、娘はなぜかバス通園を異様に嫌っていて、毎朝、嫌がるのを無理やり引きずるようにしてバス停に連れて行き、バスに押し込む…みたいな状態だったのだった。 
 毎朝、次男が具合悪くて吸入をしないと歩けないと言い、娘はバスに乗りたくないと泣いて暴れ、1分を争ってバスの時間が迫ってきて、私はパニックになってヒステリーを起こしながらどうにかこうにかやっていた、やれていると思っていたけど、ぶつん、と糸が切れた感じになった。 

 そして、年が明けて、2016年1月、1年生の3学期から、次男は学校に行けなくなった。 
 私も、夫も、次男本人も、何が起きたのかわからなくて、恐怖のどん底だった。 
 どん底だった…、と思っていたそこは、まだまだ入り口のあたりの暗がりに過ぎず、さらに底も何もかも見えない真っ黒な渦にどこまでも飲み込まれていくんだけど、2年前の今頃は、「春になったら、落ち着く、春休みを楽しく過ごせれば気持ちも新しく切り替わる、春から心機一転だ!」と必死に言い聞かせていた。 
 不安と、ぞわぞわする怖さとは裏腹に、日一日と増していく春の明るい気配がアンバランスで、不協和音が皮膚の神経という神経を逆撫でしているような毎日だった。

次男の課題、私の課題

 次男の強烈な顔面チックは、唇のあたりがブルブルっと震え、そのまま鼻と目が同時にビクビクと痙攣し、最後は眉とおでこのあたりがコントロールできない風に繰り返し歪む、というのを何秒かごとに繰り返す、というもの。 
 あまりにも風貌が異様に痙攣するのと、頻繁なことで私はすっかり動転してしまった。
 そこまで何のストレスを与えていたのか?と考えてみても、心当たりがない、心当たりがないということは、また知らず知らずのうちに子供を押さえつけたり、きちんと向き合ってないという証拠なんじゃないか…と落ち込んだ。 
 確かに、ここ2~3週間、次男の登校についての動きはだんだん重くなり、気持も弱ってきて、ストレス耐性が一気に落ちていく様子は見えていた。 
 でも、「きちんと見えているし、対応できている」つもりでいたのに…。 

 学校での様子は、正直なところ、年齢よりも相当言動が幼く、はっきり言ってしまえば「問題児化」しつつあるようだった。 
 授業中に騒ぐ、友達にいたずらをする、注意されればエスカレートする、逆切れする、ふて腐れる、逃げる、隠れる、など。あるいは、きつく注意してくる子に対して、言葉では勝てないので、手が出ているようだった。 
 だけど、彼の性格は、そういう攻撃的なタイプではなく、どちらかといえば敏感で繊細な方なので、そういう言動によって友達から非難されたり、仲間に入れなくなることでより傷つき、怖くなり、どうしていいかわからなくなり…という悪循環にはまっているのだということも想像がついた。 
 要するに、「自分の中の葛藤を処理しきれない」、ということに尽きる。 
 やりたくないこと、不本意なこと、我慢しなければならないこと、に対する「耐性」が、極端に弱い。 
 それは、たぶん集団生活を送れなかった2年生の1年間で、大きく後れを取った部分でもあり、家庭内でも、理不尽に抑圧してきたことへの反省から逆方向に針路をとった反動が出ているということも考えられ、彼は「集団の中で、我慢していくこと」の経験を積まなければいけないんだなあと思った。 
 たとえば、クラスの中で彼だけが何かをやらない、やりたくないと大声でアピールする場面などがあったり、ひとりだけ騒いで周りに迷惑をかけたりする…ということがあったりして、周りから非難の集中砲火を浴びたりするらしい。そういうことが、ここのところ頻繁に続いていて、だんだんエスカレートする様子だった。 
 でも、それは、彼が乗り越えなければいけないことだ。 
 「そうかそうか、嫌だったねえ」では、どうにもならないことだ。 
 だけど、実際に本人が傷ついているのは確かなんだから、どうしたらいいのか…と思っていた矢先の、チック症状だったので、「もうこれは落ち着くまでは学校を休ませるしかないのか」と慌てた。 

 ところが、担任の先生と話してみたら、「学校では一切そういう症状は見られない」という。 
 見逃しているということは考えにくい、ものすごくはっきり出るから。 
 じゃあ、何なんだろう、家庭内でのやり方に何か問題があって、出ているんだろうか?と不安になった。子供がこんなに顕著なサインを出すほどに、無自覚にストレスを与えていたんだろうか。 

 折よく、スクールカウンセラーとの面談があったので、このことを相談してみた。 
 回答は明確で、可能性として考えられることは、と前置きしたうえで…、「お父さんやお母さんが、きちんと枠組みを定めて、どーんと受け止めてくれるかどうかを試してると思います」。 
 つまり、「いいことはいい、ダメなものはダメ」という、はっきりした基準や、明確なゆるぎない価値観のようなものを、彼に示せているかどうか? 
 「学校は、行くもの。行きたくない、とか、帰りたいから途中で帰る、というものではなく、朝から放課後まで、きちんと行くのが当たり前である」という、ハードルを、子供の気分や調子によって上げたり下げたりせずに、きちんと保って示し続けているか?ということ(実際に行けるかどうかは別として、基準値を場当たり的に下げないということ)。 
 お父さんやお母さんは、僕が、ふらふら迷ったり、揺れたり、はみ出そうとしたりしたときに、枠と一緒にふらふら揺れたり倒れたりしないかな、どーんと受け止めてくれるかな、はみ出そうとしたときには、「ここまで!」ときちんと示してくれるかな、というのを試しているんじゃないか、と。 

 そう言われてみると、ああ、確かにハードルを勝手に下げていた!と気づく。 
 そうだった。そこは下げてはいけないんだった。 
 無理やり登校させる、とか、嫌がってるものを引きずって行く、とかではなく、「行けないならそれはそれで仕方ない」、ただし、「学校は行くものだ」という大前提は、勝手にふらふらさせてはいけないんだった。 
 子供にしてみたら、ちょっとダダをこねてみたり、具合悪い様子をすれば「じゃあ行かなくていいよ」と言われたり、そうかと思えば頑張れと尻を叩かれたり、混乱するし、それこそが不安の原因だろう。 
 いつの間にか、親の私たちもまた、あの暗い顔つきや、どうにもならない閉塞感を恐れるあまり、「行けるときだけ行けばいいよ、それでも前に比べたら全然頑張ってるよー!」みたいな、都合のいいポジティブ感に逃げていた。 
 どうしても逃げちゃうんだなあ、逃げ腰なんだな。ここは何が何でも踏ん張る…!っていう、足腰の鍛錬が足りてないなあと思わされた。 
 そういう根本的な親の弱さに対する不安が、彼のいろいろなサインとして出てきた可能性はとても高い。 

 「それにしても、突然出てきたと思うんです、今まで大丈夫だったんですが…」と私が言うと、カウンセラーさんは「それはねぇ、お母さんの、幼稚園のバザーが終わったからじゃないですかね」と言った。 
 「子供って、びっくりするくらい、親の様子を見てますからね…、バザーの準備期間までは、頑張ってたんでしょうね。今、この不安をお母さんにぶつけたらお母さんが壊れちゃう、って思ってたんでしょう。実際、壊れたと思いますよー!」 
 「うう…確かに…その通りです…」 
 「子供は、親の器を見てますからね、今だったら出せる!!ってタイミングで出してきたんだと思いますよ。だから踏ん張りどころですね。倒れないようにしっかり押さえてあげてください」 

 ということで、当面の課題は、学校での問題は学校のものとして、親は気を揉んだり先回りして心配しすぎず、先生にお任せする!ただし、細かく情報を共有して、連携は取って行く。 
 家庭では、子供が不安を訴えたり、怖いと言ってきたら、その気持ちには共感しつつ、だからといって、ハードルは下げない。無理強いするのではなく、できないことは仕方ない、と受け止めつつ、「でも、ここまでは越えなければいけないことだよ」という基準値は示し続ける。 
 ということだと認識した。 

 別に、「学校に行くこと」だけが正解ではなく、大義でもなく、唯一の道ではない。 
 でも、人間が社会的動物である以上、大なり小なりの集団生活を送って行くことは避けられず、集団生活上の葛藤や、コミュニケーションの能力によるプラスやマイナスの出来事は必ず訪れる。それは、「どう生きていくか」という問題に密接に関わって来る。 
 そのための練習をする場として、今は、「学校」が彼にとっては最適であるのだから、そのことを親はきちんと信じ、方向性として示してあげなければ、と改めて思った。

「可愛いから怒るんだよ」という呪い

娘の「荒れ」は、少しずつ、少しずつ、凪の時間が長くなってきた。 
  
 今年に入ってからは、春に1度、夏に1度、激しい爆発があったけど、それも去年に比べたら全然可愛いもんだったし、時間もごく短かった。 
 怒りと悲しみの狂乱状態から、普通のモードに戻るまでの時間が短くなり、回復後の安定感も違ってきた。 
 それでも、まだまだ彼女の中に巣食う暗闇は深く、黒く、どうしても「嫌がらせをやめない」という状態像として、出てくることが多い。主に、兄たちへの。 

 本人も、「やりたくないのにやってしまう」と泣いていたことがある。 
 そうだろうな、と思う。もう、物事の善し悪し、やるべきことやってはいけないこと、時間、場所、そういうものはきちんとわかっている子だ。 
 これをやったら、どういう結果になる、誰がどのように困る、ということも、正確に想像できる子だ。 
 だから、「やめなさい!」とか、「どうしてそういうことをするんだ!」って、いくら怒ったって意味はない。それでも、さしあたっては目の前のその言動を止めなければならない。 
 主電源まで、まだ手が届いていない、どこにあるのかはなんとなく見えてきているけれど。 

 親に対して…、特に、私に対しては、そういう態度は激減した。ほぼ、ない。 
 あんなに憎悪に燃えた目で私を睨んでいたのに、こうやって柔らかく許して、甘えてくれるのだと思うと、ありがたくて泣けてくる。 
 ちょっと嫌な行動…、ひねくれた態度、私を試すような言動が出ることがちょこちょこあっても、私も「どうしたの?」と訊けるようになった。問答無用で引っぱたいて、抵抗するから引きずって、暴れるから締め出して鍵をかけていた自分の、どうにもならなかった苦しさを思い出す。 
 そんなひどいことを、やっていい、やるべきだ、などと思ったことはなかったけど、正当化するための言い訳ならいくらでも出てきた。 
 いくらでも出てくる言い訳の、根底にずっと流れていたのは、「私だって!!!!!」っていう悲鳴に近い叫びだったと思う。 

 私だって、甘えたかった、わがままを言いたかった、ふて腐れたかった、親の言うことに逆らいたかった、口ごたえをしたかった。やりたくないとか嫌だとか言いたかった。 
 でもできなかった。 
 我慢してきた。 
 なのに、どうして、どうして、あんただけ!あんただけずるい!許さない! 
 …って、思っていたんだろうな。そうでなければ、あんなにも瞬間的に噴き上がった怒りの、説明がつかない。 

 記憶に、うっすらとあるのは、母が狂乱状態で子供の私を叩いている、叩きながら、「お母さんをこんなに怒らせるなんて(あるいは悲しませるなんて)、憎たらしい子だね!!」って叫んでいること。 
 そんな怒られ方は、小学校高学年くらいからはなくなったので、もっと小さい時の記憶なんだろう。私が、思春期を迎えるころから、母は逆上するような怒り方はしなくなった。「あれ、怒られなくなったな…」という感触が残っているので、記憶は確かだと思う。 
 たぶん、洗脳がきれいに入って、一丁上がり、になったんだろう。そのころの私は、母の「よき相談相手」にすらなっていた。「お母さんが言ってほしい言葉を、全部言ってあげる」、って感じの長女だった。 
 そういう風になることで、生き延びた。 

 私は聞き分けの良い子だったから、親に歯向かったことも、逆らったこともない。一切ない。 
 それでも、ごく小さい時には口答えをしたり、ふくれたりしたこともあり、そのたびに、完膚なきまでに叩き潰された。 
 そしてそのときは、記憶にあるように「こんなに怒らせるお前が悪い!」と罵られるときと、優しく抱きしめながら「あんたが可愛いから怒るんだよ」と言い聞かせるときの2通りだった。 
 この、「あんたが可愛いから怒るんだよ」は、とてもとても甘美な響きで、私にとっては、お母さんが本気で私のことを考えて本気で向き合ってくれて、しっかり愛情を注いでくれている…!と信じ抜くための根拠だったから、長い間、とても大事な宝物のような言葉だった。 
 そして、自分自身も、その言葉を旗印として高々と掲げ、子育てをしてきた。 
 途中、意気揚々とその言葉を披露する私に、「それ、ずいぶんおかしな言い回しだよ」と指摘してくれる人ももちろんいた。でも、何度聞いても、どれだけ詳しく聞いても、「言ってることは、なんとなく、わかるんだけど…」という域から出ることはなかった。

 子供が意のままにならなくて、叱るとき、怒るとき(怒ったっていいと思う、人間だもの)、「あんたが憎くて怒るのじゃない」、と伝えることは、とても大事で、とても正しいことだ。 
 だから、私の母も、それを言いたかったんだろうな、って、昨日の夜、急に思った。 
 お母さん、私たちに、「あんたのことが嫌いで、憎たらしくて怒ってるんじゃないよ」って、そのことを言いたかったんでしょう。 
 だけど、勢い余って、「可愛いから(愛しているから)」をくっつけちゃったの、それは間違いだった。正確に言えば、「から」、が、そこに要らない。 
 だってそれは、「嫌いだから怒る」と、同質のことだから。 
 お母さんから受け取る愛も憎しみもすべて、お母さんのコントロール下にある、お母さんのさじ加減一つ、と思い知らされるだけだから。 

 なんで昨日の夜、突然そこに繋がったかというと、娘が、わざと怒られるようなことをやり、制止してもやめず、ますますエスカレートして、「これ見よがし」がひどくなったのだ。 
 それは、夫に向けてのアピールだったので、私は別室に逃げて閉じこもった娘を迎えに行った。 
 「ちーちゃん。何か嫌な気持ちになって、止まらなくなっちゃったの?」と訊くと、うなずく。それから小さな声で、「ごめんなさい」と言った。 
 「お父さんにも謝れる?」 
 「…なんて言ったらいいの」 
 「一緒に言いに行こう。どうしてあんなに悪い態度を取っちゃったのか、ちゃんと謝らないとね」 
 「うん…」 
  
 私は娘に、こう言った。 
 「お父さんもお母さんも、ちーちゃんのことが嫌いで、憎たらしくて怒ってるんじゃないんだよ。可愛いよ。大好きなんだよ。でも、そういう悪い態度を取られると、お話ができなくて困るよ。だからやめてほしい」 

 言いながら、涙が出た。 
 今まで、「憎たらしくて怒ってるんじゃないよ」「嫌いだから怒ってるんじゃないよ」までは言えたけど、そこと切り離して、「大好きだよ」だけを言うことが、できなかった。 
 どう頑張っても言えなくて、食いしばった歯の奥で、締め付けられる咽喉の奥で、何度も何度も言葉が殺されていった。 
 だけど、「可愛いから怒るんだよ」の、嘘…、というか、ほころびが見えたら、一気に剥がれて、伝えたいことの本質だけをまっすぐに言えた。 

 可愛いから怒るんだよ。 
 そうじゃなかった。  
 可愛いは、可愛い。そこは、どうやっても変わらない、動かない、絶対に消えない。 
 でも、怒ってることには、それはそれで理由がある。 
 今、ちょっとイライラしてたかも。疲れてたかも。  
 そういう悪い言動は、あなたの今後のためには放置できない。 
 ふて腐れて逃げたり、口ごたえばかりしていたら、ちゃんと話ができないから困る。 
 などなど、理由はそのときによっていろいろだ。 
 だから、それを言えばよかったんだ。 

 ひどい理不尽な理由かもしれない。 
 お母さん今ちょうどお腹が空いていてイライラしている!とか。 
 でも、それはそれで伝えて、「だから怒りすぎた、ごめん」もありだと思う。 

 子供が、「私のせいで」「私が悪いから」「私が〇〇だから」って、強く強く強く思い込みすぎることの、悲惨さを考えたら、全然そっちの方がありだと思う。 
 その「〇〇」の中には、「私が愛されているからだ」っていう思い込みだって入る。裏返せばとても怖いことを言われているのに。 

 私が○○だからだ…、私のせいだ…、という呪いを、今、ようやく剥いている最中だから、わかるようになったのかもしれない。 
 きっと母も、その当時には本当に必死で、お母さんなりに頑張って、考えて伝えてくれたことだったんだろうな…と思った。

課題の分離

 他人を変えることはできない。 

 他人を動かすことはできない。 

 変えられるのは、いつも、「自分」だけだ。 
 何度でも何度でも言い聞かせる。忘れてしまうから。何度でも。 
 他人を変えることはできない。 
 他人を動かすことはできない。 

 他人の言動が気になって気になって仕方ないとき、というのは、自分の中に未消化の課題があるときだ。 
 だから、そこをしっかり見て…、蓋を開けて、手を突っ込んで、ちゃんと掴んで、取り出して、うなだれてため息をついて…、それから顔を上げて。やらなくては。やるだけだ。 
 自分のことを、自分が、やるだけ。それだけしかできない。 
 ほかのことは、できない。 

 「こうした方がいいよ」 
 「こうするべきだよ」 
 「どうしてやらないの」 
 「どうしてできないの」 

 そんな思いが沸き上がって止まらなくなるときがある。 
 怒りになる。 
 悲しみになる。 
 無力感に苛まれる。 

 でも、そんなことは、無意味だ、そんなことにエネルギーも時間も割いてはいけない。 
 自分の中にある課題を、まずは、やる。それだけ。 
 それだけしか、やれることは、ない。 

 夫と娘の関係が、よくない。なかなかよくならない。 
 かなり改善したのは事実だけど、でも、それは表面的なものでしかないので、すぐにメッキが剥がれる…、その、剥がれる様子を目の当たりにしているのが、苦しい。 
 娘が何らかの問題行動を起こしているとき…、正確には「起こしかけているとき」、すでに、夫の身体から煙のように怒りやイライラのオーラが立ち上ってくるのを私は感じる。感じてしまう。 
 ああ…、まただ、…と暗い気持ちで思う。 
 許せないんだな。こういう言動が、彼には癇に障ってどうしようもないんだな、と思う。 
 そして私も、ちょっと前までは、確実にそうだったから、その内面に暗く泡立つ怒りの感情が、手に取るようにわかる。 
 でも、夫は、それをぶつけてはいけない、と「知っている」から、耐える。ギリギリギリギリと我慢して、娘に接しているのがわかる。 
 でも気配が張り詰めていて、いつ爆発してもおかしくないと、私の皮膚がチリチリと訴えてくる。 
 案の定、限界はあっさり訪れて、夫は声を荒げ、娘は走って逃げて物陰に隠れ、出てこなくなる。 
 手負いの獣のような顔つきで、暗いところからこっちを睨んでいる。 
 その憎々し気な様子に、ますます夫の苛立ちは募り、声も態度も荒れていく。 

 今までと違うのは、私が声をかければ娘は出てくるようになった、ということだ。 
 私との関係は、だいぶ良くなってきた。それでも、まだまだ道は遠い。 

 物陰から出てきた娘が、私に甘えているのを見て、そしてその「甘え」は、一般的な甘えとは大きく異なっているので、その様子がさらに夫の怒りを大きくする。もうこうなったら、何を言ってもやっても苛立ちにしかつながらない、悪循環だ。 

 「ねえ、見ているだけでもそんなにイライラするんだったら、ちょっと見えないところに離れていた方がいいよ」と、たまりかねて声をかける。夫はゲーム機を持って別室に消えた。 

 その間に、兄妹3人の、いろんないざこざやもめごとが次々に起こる。他愛のない諍い、口喧嘩、ポジション争いのようなもの。 
 それでも、そんな些細なことでも数限りなく繰り返して対応していれば疲弊はする。 
 ああ、まただ、こうやって、いつもいつも、いつもいつも、私が、私だけが、ワンオペで子供の対応をしている。してきた。そしてこれからもそうなんだろうか。 
 どうして、夫は、自分でやろうとしないんだろう。自分の中にある問題の本質を掴んで、解決しようとしないんだろう。 
 やればいいのに。 
 ヒントはいくらでもある、私だって勉強してきた、自分からどうして情報を取りに行かないのか、掘り下げて対策を考えないのか、理解に苦しむ。 
 親としてやっていく覚悟がないのか。どういうつもりなのか。 
 私が言ったことは、やる。私の意見は、聞く。 
 でも自分からはやらない。すぐに逃げ腰になる。実際に逃げる。考えることを拒否しているように思う。 
 夫の中に、夫の生育歴の中に、何か確実に問題の核があって、そこをきちんと見て、根本から変えていかないと、いくら方法論だけをなぞったってどうしようもないところに来ているのに。 

 と、歯噛みする思いでいると、「回避型」というキーワードにぶつかった。 
 回避型。 
 まさに、問題の本質に近づいてくると「逃げる」、感情を大きく揺さぶられるような出来事を「避ける」、という状態で、それは親との関係に由来していると言われている。 

 私は、夫とその両親の関係を、どうにかすることはできない。 
 夫が「回避型」だとして、それをどうにかすることもできないのだ。 

 仕方ない。今、私にできることは、私がやれる限りの方法で、娘を守ることだし、過去の過ちによる傷を癒すための努力を惜しまず、試行錯誤し続けることだけだ。 
 たとえ、それが私と夫の「対立」につながりかねないとしても、やるしかない。 
 私は、母であるから、守るべき第一義は子供の魂だ。 

 夫はきっと、子供に私を取られたと、思っているんだろうなと、この頃感じることがある。 
 子供が可愛くないわけじゃないし、もちろん愛しているけど、それはきっと「父親として」ではないんだと思う。 
 あの人が、父親からそういうものを貰っていないから、知らないんだから仕方ない。仕方ないけど、「仕方ないまま」では終わらせられないんだということを、どうにかしてわかってほしい、とは思うんだけど。 

 私は、私にできることを、やるしかない。