続いていくということ

 結果論でしかないんだけど、次男不登校状態が1年にも及んだのは、きっと、どこかで対応を間違ったんだろうなと思う。
 たぶん、初期の段階。
 でも、1年もの長期に及んだことで、そのことでしか気づけなかったこと、得られなかったこと、見えなかったことも、もちろんたくさんあった。

 もしかすると、たとえば1か月くらいの不登校状態で済んで、そのあと復学してたとしても、今あるような気づきや体験、価値観の変化は得られなかっただろう。
 だから、また不登校を繰り返したり、あるいは別の形で問題が噴出したり、何らかの問題を繰り返しただろう。きっとそれは、登校刺激を受けて何らかの化学変化が起こった後の日々にも、確実に訪れる。
 さまざまな形で、見え方で、彼の中にある問題が浮き上がってくる。

 問題の根っこは、深い深い部分に、ひとつかふたつあって、あとは表層部分に近づくにしたがってさまざまな現象に枝分かれして行って、表面に見えているいろんな現象はもう、ほとんど本質ではない。
 だから、表面部分だけ必死に解決しても、また違うところで、違う問題として、出てくる。キリがない。

 そういう意味では、根っこに近づいて近づいて、少しずつ本質の部分を解決しようとしている今の状態も、それはそれで確かに大事だと言えるのかもしれない。
 でも、やっぱり一方では、1年もの長期に及んだ不登校で失った時間や、彼が受けるべきだったいろいろな経験、思い出、…そういうものに思いを馳せてしまう。

 だけど、仕方ない。すべては、今、ここから、始めるしかないから。いつだって。どんなときだって。今、ここから、できること、やるべきことを探して、やっていくしかない。 
 …生きるって、生きていくって、難儀だなあ。ほんと。
 
 だけど、つまづいても、ころんでも、ぶつかっても、痛くても怪我をしても、倒れても死にそうでも苦しくても、でも、おしまいじゃないよ、続いていくよ、大丈夫だよ、っていうことを、親が子に見せられる、最高のチャンスなんだろうな。