「怒り」で隠したもの

 娘との関係は、一時期に比べるとだいぶ良くなってきた。
 それでも、どうしても、冷たく硬い岩のようなわだかまりが、とけない。
 娘の魂の根っこに、暗く淀んで根を張った、どす黒いもの。それに日々、憎しみを注いで、育てていたような私のあり方。
 そして、そこまでわかっているにも関わらず、どうやっても、反射的に娘を払いのけてしまう瞬間が今でもあって、一体私は、どこまで病んでいるのか、何が毀れているのか、途方に暮れる。
 だけど、おかあさんだいすき、と手紙をくれるようになった、抱っこ抱っこと甘えるのがやわらかくなってきた、以前のように、背中にどすんと体当たりしてくるようなことはもう決してない。
 いつでも好きな時に、ほっぺたをはむはむさせてくれるようになった。ほっぺただけではなくて、おでこ、鼻、あごもオプションでつけてもらえる。要するに食べ放題をゆるされた。
 遊んでほしいとき、退屈なときには、「お母さん、遊んで」「お母さん、遊ぼう」と、言ってくれるようになった。私が、拒まない、とわかってくれたんだと思う。
 以前は、たぶんそういうときには、わざと困らせるようなことばかりして、そして怒られて、叩かれるまでやめない(叩かれてもやめない)、という状況にまで追い込まれていたんだろう。…何度も何度も。もうそういうことは、ない。ゼロではないけど、限りなくゼロに近く、減った。
 日常の些細なことを、私が注意すると、すぐにやめるようになった。
 「あっ…」と私が言っただけで、「はーい!ごめんなさい」と手を離す。
 でも、もちろん、エスカレートすることもいっぱいある。
 ただ、そういうときに、以前のように私自身が、目もくらむような怒りに飲み込まれるようなことは、ない。
 ないけど…、でもそれは、燃え上がらないだけで、火力の強さの問題だけで、まだ火種は残ってるな、とは感じていた。
 それに、そういう風に「嫌がらせこじらせモード」に突入してしまったら、おさまるまでがなかなか大変で、一苦労なのではあった。実際に、すぐにやめさせなければいけないようなことをやっている場合に、ちょっと接し方を間違ったばかりに逆にスイッチが入ってしまい、非常に困ることはよくあった。

 何日か前、私は、娘をものすごくこじらせてしまった。
 風邪をひいて以来、トローチがすっかり気に入った娘は、もうのどなんか痛くないのに、痛いふりをしてトローチをせがむ。そのやりとりにちょっとイライラしていたので、娘が「おかーさーん、のど…」って言いかけただけなのに、「いい加減にしなさいっ!トローチなんかダメだからね!!」と怒鳴ってしまった。
 まだ何も言ってないのに(まあ言っただろうけど)。そして、こういう無茶なキレ方をしたのは、本当に久しぶりだったので、久しぶりだったことに自分でもびっくりした。「わー、こういうのしばらくやってなかったなー」っていう感覚が全身にみなぎった。とても不快だった。
 そして、こんな無茶なキレ方が日常茶飯事どころか、もう呼吸をするのと同じようになっていた春先までの日々を思った。
 …娘は、この怒鳴り声で、さっと顔色を変えると、走って奥の部屋に引きこもった。そしてあちこちに潜り込んで隠れようとした。
 「ちーちゃんごめん、お母さんの言い方が悪かった。ごめん」と声をかけても、何かものすごくドスの効いた罵声しか返ってこない。エクソシストみたいになってしまった。
 無理に手を出そうとすると、蹴られたり噛みつかれたりする。
 でも放っておくと、娘は自分の頭をゴンゴン殴るのだ。その手を掴むと、掴んだ手を噛まれる。
 そして片腕を骨折していて、応急処置しかしていない状態なので、危なくてうかつなことができない。

 仕方ないので、私はその場を離れた。
 そして別の部屋で、ぶわっと噴き上がってくる怒りの感情を、見つめていた。
 火力こそ小さいけど、確実に、燃え狂っている。ちょっと燃料を足してやれば、さぞかし激しく燃え盛るだろうと簡単に想像できた。ただ、足さないだけだ。
 でも、この怒りは、何なんだろう?と、初めて思った。

 まず出てくるのは、
 謝ってるのに!
 ちょっと失敗しただけなのに!
 ひどい!
 というような気持ち。
 それを柱にして、ゴウゴウと燃えている。

 私は、「自分の思い通りにならないことに対する怒り」、なのだろうと、今まで自己分析していた。
 長男のときも、次男のときも、制御できないような猛烈な怒りを頻繁に感じていたけど、それは全部、「育児が自分の思うようにならないことへの憤り」「我が子を思うようにコントロールできない怒り」だと思っていて、私はなんて支配的な人間なんだろうと思っていた。
 でも、このとき、初めて「そうかな?」と疑問がわいた。
 私は、そんなに、支配的な性格だろうか?
 思い通りにならないことに対する怒りを、日常のすべてに感じているだろうか? 
 なんでも思うようにコントロールしたい気持ちが強くて、他人を押しのけてでもやり通すだろうか?

 違うような気がする。
 人を、あるいは自分の子供たちを、「私の思い通りに仕上げたい」なんていう気持ちは、私にはないし、そんなことに執着していない。
 …母は、そうだった。そういう人だ。思い通りに周りの人間も状況も支配したい人だ。
 だけど私は、違う。

 そう気づいたときに、あれ…、この「怒り」の、底には、本当は何があるんだろう…?と、初めて覗いてみる気持ちになった。

 よーく、見てみた。静かに、目をこらして。
 そこにあったのは、「悲しみ」だった。

 一生懸命頑張っているのに、報われない、悲しみ。
 どうやってもわかってもらえない、悲しみ。
 失敗してしまった悲しみ。
 人を傷つけてしまった悲しみ。
 子供のこと、愛しているつもりなのに、愛そうとしているのに、うまく伝わらない悲しみ。
 こうやって結局、子供を苦しめていることへの、悲しみ。

 そして、自分自身が、怒られ罵られ、支配されてコントロールされてきたことへの、悲しみと、怒り。

 そうだ、私は、悲しかったんだなあ。
 思い通りにならなくて悔しい、ではない。
 悲しい。
 もう、気づいたんだから、悲しんでもいいんだな。怒るふりしなくても、いい、悲しいんだ、今、悲しいって思ってるんだ。
 と、ひたすら、だばだば涙を流した。
 今までの、子供が生まれてからの10年間の、いろんな場面を思い出した。
 そして、そのときに、息もできないような怒りでもだえ苦しんでいた感覚を思い出した。
 あれも、これも、全部、私は悲しかった、悲しかったんだなとわかった。
 そうしたら、娘の、もうどうにも手が付けられないような暴れや、怒りの行動の根っこにあるのも、悲しみなんだとわかった。
 悲しくて、悲しくて、やりきれなくて、どうにもできなくて、暴れてる。
 そこをまた怒鳴られて、叩かれて、放置されて、見捨てられて、ますます悲しみをこじらせる。

 私は、隠れてる娘のところに言って、もう一度、静かなしっかりした声で、心を込めて謝った。
 「お母さん、言い過ぎた。本当にごめんなさい」
 娘は、おとなしく出てきて、顔をくしゃくしゃに歪めて、「どうしてお母さんは、ちーちゃんばっかり、いつもいきなり怒るの。ちーちゃんはまだ何も言ってなかったのに、あんな怖く怒らないでほしかった」と涙をポロポロこぼした。

 この子がいなかったら、私は、こういう気持ちに気づくことはなかったのだ。

 昨日の夕食時、夫が、娘を些細なことで何度も頭ごなしに叱って、言えば言うほどエスカレートする、という状況になった。
 「やめろ」「いやだ」「やめなさい」「やめない」の不毛な繰り返し。
 私には手に取るようにわかる、夫の気持ちがわかる。
 そして、それが無意味どころか有害でしかないことを、今はもう誰よりも知っている。
 夫を制止したら、「ダメだということをわからせないで、どうするの?甘やかしじゃないの?」と言う。
 「ちひろは、ダメかどうかなんてことはよくわかっていて、わかった上でやっているんだから、やめさせようと怒るのは全く意味がない。わからせるという目的も果たせないし、制止することもできない」と伝えても、納得しない。
 私が夫に代わって、その問題行動(と見えるもの)の、根っこにある気持ちを、ほぐすように気をつけながらやり取りをした。行動には触れず、気持ちを聞くようなつもりで(まだうまくはできないけど)、ちょっとふざけたりしながら、笑って楽になれるようにしながら…。
 そのやり取りを見てイライラしたらしい夫が、また横から何事か口出しをした。その途端、娘はまたさっと顔色を変えて、子供用のパイプ椅子をギーィギーィと引きずりながら部屋を練り歩いた。
 「ちーちゃん、それは、下の部屋の人に迷惑がかかるから、やめてもらいたい」と夫が言った。
 すると、娘はパッと手を離して、やめた。そして別のアピールに切り替えた。
 私と夫は、思わず顔を見合わせた。
 やっぱり、善悪の区別はわかっている、下の部屋の人は「関係ない人」だから、迷惑をかける意味がないから、すぐにやめるんだな、と思った。
 だとしたら猶更、問題行動なんて、それは本当は問題でもなんでもなくて、その根っこの部分をどうにか癒してあげなければいけないのだ。

 私は、自分が「悲しんでいた」ということがわかったから、きっと、少しずつ、上手に悲しめるようになると思う。
 そしたらもう、「怒り」でごまかす必要はないから、怒らなくて済むと思う。
 夫も、自分の根っこに何があるのか、たどり着ければいい。
 娘も、そして次男も、長男も、自分の気持ちを、そのままのかたちで、しっかりと感じられるようになればいいなと思う。