ただ感じること、その難しさに比べたら、「考える」ことなんて、ほんとうに簡単だし、楽だ。いくらでもできる。
考えることは、怖くない。
ぐちゃぐちゃに潰れて固まっている何かを、ゆっくりと壊さないように剥がしながら、仔細に眺めることは、痛みを伴わないとは言わないが、「何かがわかる快感」のほうが勝るように思う。
めちゃくちゃにこんがらがった紐を、はしっこから順番にほどいていくとき、息を詰めて時間をかけてほぐしていくときには、「集中」だけがあって、私はそれを嫌いではない。
思考や分析には、ゴールがあって、…あるいは、ゴールがあるものだという前提の下で取り組むことができるから、達成感やそれに似たものが得られる。
そして、一見、解決したっぽいように収まる。
収まってきた。
解決したのだと思っていた。
でも、違うんだな、蓋をされた感情は、その蓋の下でずっと冷めないまま、ふつふつしたまま、蒸発もできず煮詰まってカラカラに乾くこともできず、そこにあり続ける。
感情を…、特にネガティブな感情を、そのままに直接に感じること、できない。動じずに、じっと、どっしりと、感じ続けることなんて、できない。
「こんな風に悲しくなるのは、私が間違ってるのではないか?」
「こうやってすぐに悪くとらえるのは、私がどこかおかしいんじゃないか…」
「また傷ついた。でも、些細なことだっていうのはわかってる。些細なことで、すぐに傷つくのは、私が弱いからだし、自意識過剰だからだし、間違った自尊心のあり方が問題の本質だ」
…って、すぐに、分析する。考える。
そして、納得のいく落としどころを見つける。忘れるために。
そうやって、忘れるために消化したり消火したり昇華したりしないと、いつまでもいつまでも、じぶじぶじぶじぶと熾火のようにくすぶり続けて、苦しいのだ。
人を恨んで環境を憎んでとにかく「自分以外のすべてが悪い」という思考の沼に陥って抜け出せなくなる、どぶどぶに汚くなって腐る。
そうなりたくないから、そこからは這い出して生きていきたいから、そのために、手に入れたのが「知識」であって、それを使うことでようやく身体から毒のねばねばを引き剝がして、観察して、そして納得して、終わることができるようになった。と思っていた。
全然終わりじゃないのに。
怖いとか不安とか、悔しいとか悲しいとか、あるいは、怒りとか。
持ってても、よかったんだと思う。
持ってるのが、当たり前のものだと思う。
でも、そういうネガティブなエネルギーを感じたとき、たぶん子供のころに何度も、強く拒否されたんだと思う。
傷ついたことを訴えては、「あんたが悪い」「あんたがおかしい」「あんたが間違ってる」と。
「ほかの子を見てごらん?そんなこと言ってる人誰もいない。あんただけだ」と。
「なんでそんなことを言って私を困らせるの」「お母さんに恥をかかせた」と。
悔しさも悲しさも、怖さも、きっとそうやって、否定されてきた。
少なくとも、たとえば膝に抱かれて、優しく背中を撫でられて、「そうかそうか、嫌だったねぇ」などと言われたことは、ない。
子供は、ネガティブなエネルギーを感じたときに、怖くて、不安で、パニックになり、泣いたり暴れたりする、という。
そんなときに、誰か信頼できる大人が、その身体を抱きしめて、「そうか、怖いんだね。怖いよね」と声をかけてあげると、「このエネルギーは『怖い』という感情なんだ、でも、感じても安全なんだ」と覚えるのだと。
感情に名前をつけて、寄り添って、「わかるよ」と共感してもらえつつ、「身体的な安全を確保されている状態」を何度も経験することで、「ネガティブな感情も、感じることは怖くない」と学ぶのだという。
そうやって、信頼できる大人に寄り添ってもらえた子供は、健康に怖がり、嫌がり、不安がり、そして怒りを表現しては、引きずることなく次の場面に進めるのだろう。
感じることが、怖くないから。
だけど、感じることを否定された子は、「感じないようにする」ことで、生き延びるしかない。
そうやって、物わかりのいい良い子、になっていく。
大人を困らせない。ダダをこねない。わがままを言わない。扱いやすい。
思えば私の母は非常に情緒不安定な人で、しょっちゅうヒステリーを起こし、いつ怒り出すのかわからなくて、私はいつもはらはらしていたように思う。
だから、集団で、ひとり不機嫌な人がいたりすると、もう自分のせいのようにいてもたってもいられなくなり、必要以上に気を遣って何とか和んでいただこうと頑張り、功を奏して場が和んでめでたしめでたしで
解散したあとなどに、心労のあまり頭痛で倒れる。
「感情的な他人」に、無関心でいることが、絶対にできない。怖い。自分はそうやって、あからさまに感情を出すことができないから、そんな風にすることのできる人が、得体が知れなくて怖い。
そして、何なら、憎んだりもする。自分ができないことをやるから。そして他人に緊張を強いて平然としているから(勝手に緊張しているのに)。
だから、自分の子供たちが、感情的にわーっと騒いだり暴れたりすると、もう、自分の蓋もバーン!と開いて、「やめろーっ!」ってなるんだと思う。
かき乱されることが、とても、許せない。
理屈の通らないイヤイヤ期とか、地獄だった。
育児書には「寄り添いなさい」と書いてある、でも、そんなこと、やりたくない。絶対にやってなんかやるもんか、憎たらしい、と思っている。
我儘やりたい放題、好き勝手に騒ぎ放題、そんなのやったもん勝ちなの?理不尽、と、わが子に腹を立てていた。
我慢させなくちゃ、我慢を覚えさせなくちゃ、きちんとしつけなくちゃ、怒らなきゃ、ひとが見ているところで厳しく怒鳴らなきゃ、…もう何のためなのかわからない、ぐちゃぐちゃで、でも根底にあったのは、「好き勝手に感情を放出する子供が許せない」という気持ちだったように思う。
親である自分が、「感情をそのまま感じること」ができないから、不安で持ちこたえられなくて、ワーッと手を離してひっくり返してしまうから、あるいは分析したり考えたりして違うものにすり替えるから、子供が感情的になっているときに、自分の不安に耐えられなくて、「やめなさい」「いい加減にしなさい」と怒鳴る。
悪循環だ。
そんな風にされた子供は、「これは悪い感情なんだ、感じてはいけないものなんだ」と学ぶだろう。
押し殺す。蓋をする。
でも、絶対に死なないし、消えない。
ふつふつしているマグマは、いつ、どういう形で、爆発するのか、どろどろと流れ出るのか。
私の子供たちは、今、この幼い段階で全力で訴えてきてくれたから、すごく生きる力が強いんだと思った。
私なんかより、ずっと強い…、私は、その子供の力を借りて、自分がこんなにも病んでいたことを知る。子供に教えられている。
ふわふわと浮足立って、逃げ出したい気持ちになって、いたたまれずに本質から逃げ続けてきたけど、「自分の感情を、ただ、あるままに、感じる」ということ、すごく大事なんだ。
考えずに、ただ、感じること。
いいも悪いも、ない。ただ、そう思っている、こう感じている、ということを、罪悪感もなく、後ろめたさや自分への言い訳もなく、誰憚ることなく、じっと抱きしめる。
きっと、すごく、涙が出るんだろうな。
そして、自分自身に、ただ感じることを許したら、きっと子供たちがどんなネガティブな感情エネルギーに振り回されても、じっと抱きしめて、「そうか、それは、嫌だったね」と言える。
身体は安全だよ、守られてるよ、どんなに嫌な気持ちになっても、大丈夫なんだよ、と教えられる。
今、ここから。これからだ。