ワケのわからなさを面白がるということ

 
 8月、とてつもないギリギリメンタルで生き延びた。
 なんでそんなにしんどかったんだろう?って思ったら、「夏休みが短すぎた」ということのダメージに尽きる。たぶん。
 メンタルやられてる子どもたち3人を、ハラハラハラハラ見守ったりお世話したり、なだめたりすかしたり、怒ったり、暴れられたり、あまりのことに号泣しながら「もうこの子を育てる自信がないぃぃぃぃ」って泣きわめきながら自転車をかっ飛ばしてスーパーに走ったりなど…(スーパーに行くと気持ちが落ち着くタイプ)。
 所沢市の街道で、涙と鼻水にまみれて自転車で疾走してる真っ赤な顔の中年女性を見かけたらそれが私です。
 なんというか…、本当に、本当に「うちの子どもたち、わけがわからないよ!!!!」って気持ちで内臓がパンパンだった。わけがわからなさすぎて悪夢を見たり。
 特に末っ子の小3女子はものすごくて、私が大人げなくカッとなって「正直、八つ当たりでした」みたいなものをうっかりぶつけてしまおうものなら、10倍にして返してくる容赦のなさ。普通に泣いちゃう。
 しかもね、この末っ子ね、日曜日の夜遅くに足の指を骨折したわけですよ(お兄ちゃんを蹴ろうとして家具にぶつけて折った)。
 そんな状態で、足指を固定して安静にしなければいけない状態なのに、バランスボールを使って反動で逆立ちをしたりしてて、しかもその逆立ちが「きれいな直立」、なんらかの競技だったら高得点だね!みたいなやつで、私は台所で「ギャアアアアア!ゴルァァアアア」って巻き舌で叫んだ。
 そしたら、「あっハイ…サーセンした~」みたいな、やる気のないバイトみたいな反応…!!なに?注意した私がおかしいの?
 意味がわからなさ過ぎて泣いた。
 …っていう、ここのところ「子どもたちがわけわからない」ということで本当に苦しんでいたんだけど(長男次男ももちろん、安定のわけのわからなさ、衰えない)、今日、「子どものわけのわからなさを面白がる」という話を聞いて、プスーッて圧が抜けた。
 「2階から放尿するなどやりたい放題の4歳息子」の相談に対して、「尿ならまだしも、野グソをする子に遭遇したこともある」っていう返しで、何もかもパワーワードすぎて、腹筋ちぎれるかと思ったほんと。
 何がって、さらっと「野グソ」って言ってるのがすっごい美人なマダムなのに、そんな美人がそんなこと言う???っていう衝撃。
 そのせいで、「あ~、子どもって、本来そういうわけのわからない生き物なんだよな…」ってすごい腑に落ちてしまった。
 
 「わけのわからなさを、『いいね、面白いね~』って、面白がっていると、そうやって育った子は、大人になってから価値観や言動の違う人に会っても『面白いな~』って思えるようになる。そうすると、何より本人が楽だし、周りからも愛される」って聞いて、あー、そうか、そうだな、本当にそうだな…って思った。
 私は、わが子たちの強烈さを、もっと面白いものとしてとらえよう。
 そういえば、人に話すとみんなゲラゲラ笑うんだけど、当の私は「笑い事じゃないんだよォ!!」って感じだったの。いいや、もう、笑ってこ!!!ネタには事欠かないんだ。
 あと、汚いワードを言ってもギャップで衆目を集められるよう、美人道にも勤しもうと思いました。
 
 
 

カマキリ争奪戦

 昨日、夫と私と娘で喧嘩になり、最終的にはあまりにもモメ過ぎて全員がふて腐れ、別々の場所で不貞寝をするという結末になったんだけど(娘はリビングのハンモックの中で寝たのを夫が運んできました)、朝起きたら「何であんなにモメたんだっけ???」ってなってたので、眠いとか疲れてるとかほんと良くないなって思った。
 ちなみに揉め事の原因は、しょっちゅう私がホームセンターに買いに行かされてるコオロギ(飼育してる生き物たちの餌用)の、配分先の不平等について。
 どのくらいしょっちゅう買いに行ってるかというと、ペットショップコーナーの店員さんが私の顔を見ると「あっ、…今日は、コオロギの在庫が無いんです」って言うくらい。絶対バックヤードで「コオロギおばさん今日も来た」って言われてる!!
 そんなコオロギおばさんになってまで買ってきてるコオロギを、カエルやカナヘビやトカゲに与えずに、今いちばん寵愛が熱いカマキリたちにあげちゃうので、私も夫も怒ってるのである。
 カマキリなんか、そのへんのバッタでもとってきて食べさせればいいでしょ!
「じゃあバッタがどこにいるのか教えてよ!それから言ってよ!」
 キョエーーーーお母さんがバッタの生息地なんかいちいち把握してるかいな!!興味ないっつーのー!じゃあダンゴムシでも食わしとけ!
ダンゴムシは固すぎてカマキリは食べられない!」
 じゃあミルワーム(餌用のイモムシみたいなやつ、比較的安価で大量)でいいでしょ!コオロギは単価が高いんだよ!
ミルワームは栄養がないからカマキリ可哀想なんだよ!」
 じゃあミルワームに煮干しでも食べさせてタンパク質カルシウムたっぷりに育て上げればいいでしょ!!
 夫「そういう問題じゃない」
 突然の乱入。
 しかし夫も娘の味方なのではなく、夫の寵愛ランキングはミヤコヒキガエル>アオガエル>アマガエル>>>超えられない壁>>>カナヘビ、トカゲ、圏外カマキリ、なので、高いコオロギをカマキリに食わせることには最も反対している立場なのであった。
 案の定、娘の剣幕に夫も押され、とうとう「じゃあお父さんが休みの日にはバッタのいる湿地に毎回連れて行ってよ!それならいくらでもバッタを取るよ!」「お父さんだって休みの日はゆっくりしたい!!なんでカマキリのために湿地まで行かなきゃいけないんだ!」とワケのわからない喧嘩に。
 そして全員が「もういい!バカ!」みたいになって寝た。
 朝起きて考えてみて、あまりのバカバカしさに笑ってしまったので、供養のためにここに記録しておく。
 要するに、娘の中でカマキリ愛が爆発してるんだから、何を言ったってムダなんである。この前まで、カマが1本取れてる片手のカマキリをめちゃくちゃ可愛がっていて、それはそれは丁寧に餌を食べさせていた。残念ながらその子は死んでしまったんだけど、そしたら「せっかく栄養があるから」って言って今度はカエルに食べさせてて、食物連鎖を司る神のしぐさだった。
 とにかく彼女がカマキリを大事にしたいなら、しばらくはそのために、コオロギおばさんはホームセンターをはしごするしかないんだな(入荷日が違う3軒を回ってるんですよ!私は!)。
 ただ、コオロギはほんとに高いので、無制限には与えられない、餌代の一部を娘のお小遣いから負担させるとか(気持ちだけね!3年生のお小遣いでは1回分にも満たないから…)、そういう落とし所でいいのかもしれないな〜。
こんなにもカマキリとコオロギと両生類のことでモメる人生になるとは思わなかった。
 それでも、より良い飼育環境にしてやろうと思って、飼育ケースを買い揃えたり、いい土を買って入れてやったり、水を用意して取り替えてやったり、ほんと、心を砕いてるんですよ…我々は…。
 人間の子どもと夫の世話だけでもいっぱいいっぱいなのに、虫!両生類!
 もうほんとグレイトマザー選手権に出てもいい。
 

助走をつけて殴りたくなんかない

「ママ閉店」、見たとき、へーいいじゃんいいじゃん、ありじゃん、という気持ちと同時に、胸の奥底で「ザワッ」としたのは事実。
炎上するだろうな、っていう気はした。ただ、くだらないから追っかけてはいない。難癖つける方がおかしいし、認知が歪んでいるのだということは自分でもわかる。
でも、その悲鳴のような怨念もわかる。
根深いのよ。
「育てやすい子」(※「いい子」ではない)を、たまたま育ててきた人たちに、「子育て大変だよねー」を語られると、相手の口をふさぎたくなる衝動は確実にある。
頭では、それぞれの育児、それぞれの事情、それぞれの大変さ。っていうのは、よーくわかってるんだけど。
それでも、まだ、傷がかさぶたにもなってなくて、乾いてもいなくて、血を流し続けてるから、不用意に触らないでほしいという気持ちが強いかな。
「転んだこともない(ように見える)人」に、わかったようなこと言われたくないって思う。
根深いのよ(2回目)。
この前、「サザエさんに育児語られたら許せない」っていうのを見かけて、笑ってしまった。
両親と都内一軒家で同居、父親現役で仕事してる、母親も現役で育児と家事を回している、おりこうさんな一人っ子は、自分の弟と妹が面倒を見てくれる…
これで、「ママって大変よね~わかる~、夜には閉店!って宣言して自分の時間持ちたいよね~」って言われたら、助走つけて殴っちゃうかもしれない…!
ああ、だけど本当は、本当は、「苦しんだ方がエライ」なんて私は思ってない。
楽して育児できるんだったら、それ以上素晴らしいことはないじゃん!って思う。いろんな人の手を借りられることは最高だし、もし、子供がよく寝てくれて、病気もしなくて、なんでも食べてくれて、キーキー騒がなくて、聞き分けが良くておとなしくて…、夫は夜中でも起きて子供の世話をしてくれて、休日は率先して外に連れ出してくれて…、そしたら、そういうお母さんがいたら、「よかったねえ!」って一緒にホッとしたい。
本当は、「そうじゃない子」、外で騒いじゃったり感情のコントロールがうまくできなかったり、よその子を叩いたりかみついちゃったり、全然寝なかったり、偏食が激しくて固形物を全然食べなかったり…とか、そういう子を育てている「お母さん(だけ)」に、「母親の育て方が間違ってる/悪い」みたいな圧力が強烈にかかること、そのことにとてもとても傷ついていて、そういう風に見られることや見えてしまうことがつらくて苦しくて、自分の首を勝手にギュウギュウ絞めたり、一人で満身創痍になったという経緯もある。
さらに私の場合、育児苦しかった+親に頼れない、というダブルコンボを決めてしまってる。
実家が近くて頼れる話、遠くの実家に夏休みや冬休みに長期間帰って、その間は母親に子供をずっと任せて自分は楽ができる話、「お母さんが見てくれるから安心」みたいな話の全部、全部にいちいちギリギリ…って歯を食いしばるときがある。
自分が健康な時は、へー、いいなー、で済むものが、疲れてたり病んでたりすると、とたんに怨念に変わりそうになる。そうなりたくないから、歯を食いしばる。いいな、って思うだけで済ませる自分でいたい。それぞれの事情、それぞれの生き方、それぞれの人生。念仏のように唱える。
本当はね、だから、楽している(ように見える)人が悪いとか嫌いとかじゃなくて、自分の中だけの問題だということはよくわかっていて、「そういう人もいるんだなー」「でも私はそうじゃないなー」「みんな、それぞれに、それぞれの頑張り方で生きてるんだよねー」っていう感じになりたい。
成仏させたいなー。
まあ、怨念をだいたい言語化できてるっていうことは、そのうち明かりが見えてくるよね、ということも経験上わかっている。このジタバタもきっと、振り返ったら大切な記憶になる。

目盛りと境界

 「優しさ」とか「親切」とか「困っている人を放っておけない」とかの、度合いというか目盛りの具合が、だいぶ狂ってるんだよなあ…とは、つねづね思っていた。自覚はしていた。 
 だけど、どこがどのようにおかしいのか、っていうことまでは考えられなくて、今までもいろいろな場面でさまざまな人に、「それは相手の要求がおかしいよ」「っていうか、なんでそれ受け容れた?」「言うこと聞いちゃったら、そりゃ、『この人はいくら要求してもいいんだな~』って目をつけられるでしょ」「相手を選んでやってるんだから、あなたに断られたらまた次を探すだけだよ」などなど、ほんとに指摘され続けてきた。夫にも。 
 でも結局、私自身が、「自分」と「他人」の境界が曖昧で、どこからが他人でどこまでが自分なのかを全く理解してなかったのだ。本当にわからなかった。 
 「自我」と認識している範囲に、相当な部分で他人を取り込んでいたり、他人に取り込まれたりしていた。 
  
 全く理解できない感覚のひとつに、「図々しい」と他人を断じること、というのが根深くあった。 
 人にずいぶんなことをされても、言われても、そしてそれを傍から見ている人が「図々しいよ!」って憤慨してくれてさえも、わからない。 
 「え~…?これって、図々しいっていうの…?」みたいに、ぼんやりする。 
 でもあれは、たぶん、私自身が誰かに「図々しいよ!」って怒られる恐怖を回避するための無意識の戦略だったんだな、ってついさっき思った(だから忘れないうちに書いておく)。 
 そう、私は、誰かに図々しいと怒られたり嫌われたりすることが怖かった。知らず知らずのうちに他人の領域に踏み込んで、「そこから入るなって言ってるでしょう!」って怒鳴られるのが怖かった。怖いけど、わからないから、やってしまいそうな気がする。気づかないうちに図々しさを発揮してしまいそうな強迫観念がいつもある。 
 だから、徹底的に、他人の図々しさに鈍感になる必要があったんだな。 
 他人に何をされても、どんなことをされても、どれほど搾取されても、「えっ、気づきませんでした…これが図々しさだとは、搾取だとは、悪意だとは、思いませんでした…私、そういうのわからないんで…」っていう風に自分に思い込ませておけば、いつか、どこかで、自分が誰かに何らかの図々しさを発揮したときに、自分に対して言い訳ができる。そのためだけに。その予防線のためだけに。 
 ちなみに、実際に「図々しいよ!」って怒られたことは、ない。少なくとも記憶に残るような怒られ方をしたことはない。 
 それなのに、「いつか図々しいと他人から指摘されないため」だけに、私を利用してくる人の図々しさや厚かましさに鈍感になり、気づかないふりをし、受け容れてきたんだなーと思うと、本末転倒も甚だしいことであるな。何やってたんだろ。 


 あと、もうひとつ、私の「親切」とか「優しさ」の目盛りが狂ってる理由は、やっぱり、自分で自分のことを「私は優しくない人間なんだ」ってすごく思い込んでいて、そこの思い込みが固すぎて、だから「足りない、もっとやらなきゃ、もっとやってあげなきゃ、そうじゃないと伝わらない、わかってもらえない」、ってなってたんだと思う。  
 誰に伝わらないの?って、それがやっぱり、お母さんなんだよなー。もうほんと嫌になる。
 母に、ずーっと、「あんたはほんと優しくない」って言われ続けてて。でも私、こんなにお母さんに尽くしてるのに、まだ足りないの?何がダメなの?どうすれば優しくなれるの?って、思ってたんだろうな。 
 それで、足りない足りない、私は優しくないんだ、って強迫観念が、「困ってる(ように見える)人」に、過剰に何かを差し出しすぎる性癖に繋がってる。 
 でも、それは「優しさ」ではないし、それを差し出している相手はお母さんじゃないし、そもそも「評価してくれるはずのお母さん」っていうのも、私の脳内に食い込んでいた幻想だし。 

 今まで、どれだけ周りの人に、「だいじょうぶだよ、あなたは優しいよ」って言われても、言われても、ほんとに入って来なくて、「ありがとう、嬉しい、でも…」って、ものっっっすごい硬いしこりがあったんだけど、なんかもうそれも要らないな、なくなっても大丈夫なんじゃないかな?って気がした。 

 うん、私は、好きな人には優しいし、嫌いな人には「は~?」って思うし、自分の大事な人のためなら自分のことなんて後回しにするし、ただ、その「大事な人」の基準は、自分の中でだけ好きなように決めるし。勝手に。 
 そこそこ優しくて、そこそこ意地の悪い、普通の人で、ただ積極的に他人の足を引っ張ったり陥れたりとかは絶対にしない、あとはできるだけ人に迷惑はかけたくないけど、もし迷惑かけたら「ごめんなさい」って言えばいいし。 

 って、書いてみるとすっごい普通の…当たり前のことになったんだけど…、でも、この感じを、今の今まで私は「全く持ってなかった」んだから…!! 
 すごいね。みんな、こういう感じで世の中が見えてるの…?すごいね…。 
 なんか、よく見える眼鏡をあつらえてもらって、「えっ、わっ、すっごい見える!ウソー!」みたいな気分。

ふれること、ふれられること

 昨年夏、講座を聴きに行ったタッチケアセラピストの中島直子さんがfbでシェアしていた記事、すごく心に刺さったので…忘れないようにコピーしておく。
 きっと、「ああ、何を言われてるのかすごくわかる」って感じてくれる人は多いんじゃないかと思う。

 なんだろね。なんのために、私たち、お母さんになって頑張ってきたんだろ。 
 子供のため、子供を愛するため、って必死にやってきたはずだったんだけど、苦しかったな。 
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いくつになっても、いつまでも、こどもたちはお母さんが大好き。小さな赤ちゃんを見てると、お母さん大好きエネルギーだけで生きている感じです。そしてたぶん、子から親への愛の方が無条件で深い。愛も憎しみも、どちらもテーマは同じ。愛のバランスの物語。
忙しすぎて、のんびりおせんべいを食べることも忘れていつもイライラしてるお母さんと、優しすぎて賢すぎて、お母さんから離れられないこども(かつてのこども)。 
こどもが求めているのは、仕事ができて、家事が完璧で、友達が多くて、みんなに信頼されて、こどもを守るために家の中にとどめて、先回りして答えをいうお母さんではなくて。 

もちろんいつもニコニコはできないかもしれないけれど、その険しい表情と尖った声と射抜くようなまなざしで、こどもたちはからだを硬直させて、息をひそめて、不安でいっぱいで、家から出られなくなっているかもしれません。 

小児科医のウィニコットの言葉に「good enough mother ほどよい母親」があるのですが、いいなあ、といつも思います。完璧母さん病が出てくると、この言葉を思いだします。 
ほどほど、いい加減、ちょうどええ感じのお母さんぴかぴか(新しい)完璧でなくてもいいよ。全部を背負わなくてもいいよ。ちょっとくらいミスをするお母さんでいいんだよ。 

ケアルームにはうつや摂食障害や引きこもりや様々な生きづらさを抱えた母娘がたくさん訪れてくださいます。 
精神科やカウンセリング、いろんなところを回り回って、ただふれる、ふれられることを求めていたんだと気づかれた方たちです。 
印象的だったのは、30代の引きこもりのお子さんの相談に来られたお母さん。タッチや抱っこがいいと聞いて、お子さんに毎日教わったようにしていたのだそうです。ところが、ふれているとどんどん腹がたってくる。こんなに一生懸命育ててきたのに、あんなになんでもやらせてあげたのに、こんなに毎日タッチしてあげてるのに、普通にやってくれたらいいのに、なんであんただけがわたしを困らせるの、わたしには誰もふれてくれないのに。 
形はタッチですが、怒りが湧いてきて仕方ない。それはこどもにも伝わり、「もう、触らんとって!」と言われてどうしたらいいかわからない、と相談に来られました。 
一時間の施術を行い2回目のお話。こどもが笑うようになったと嬉しそうです。「1時間も大切に誰かにふれられたことが人生でなかったんです。何かが溶けていきました。タッチや抱っこがいいと聞いて、形はやっていたけど、心はなにもなかったことに気づいたんです。わたしが今まであの子にしてきたことは、みんなそうだったのかもしれません。本当に心をこめて、話を聞いたことはなかったし、想いに寄り添ったことも一度もなかった。自分もふれられていないから、想像もできなかった」と。 
形は大事。でも心はもっと大事。 
気づいてからがスタートです。気づかれるのを待っていた健やかさの種。大切に大切に。

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「気づいてからがスタートです」 
っていう言葉の、優しさ、温かさに、いつも泣ける。 
もう遅いんじゃないか、もう手遅れなんじゃないか、もう間に合わないんじゃないか、って思いながら焦りながら後悔しながら生きてるから。 
でも、気づいてからが、スタートなのね、ここから始めていいんだね。どんなことも。

春が、また来る①

娘が、春から1年生になる。 
 そして1年生という区切りの年齢は、私と子供たちにとって、ひとつの大きな試練になるんだと思う。 

 長男のときも、次男のときも、「1年生」という時期はものすごい嵐だった。 
 心臓が握り潰されるような感覚を忘れることはない。生きながら死んでるみたいだった。 
 きっと、私が、手を放すのが早かったんだ。 
 それは「時期尚早」という意味ではなくて、子供の準備が整う前に、親子の共通認識が出来上がる前に、同時に「いい?じゃあ、放すよ!せーの!」ということをせずに、とにかく一方的に、一刻も早く、早く楽になりたくて、もう持ちこたえることができなくて、「ああもう無理、無理だから!」という悲鳴と同時に、ほぼ放り投げるように手を放した、という感じに近い。 
 手を放した、んじゃなくて、投げ出した。 
 そして、投げ出したから、怖くて、直視しなくなった。 
 ほかにも見なければいけないものはたくさんあった、手のかかる下の子のこともあった、いろいろな言い訳なら、いくらでも、いくらでも湧いて出てきた。 
 だから、小学校1年生になった子供のことは、「もう知らない」、という感じに近かった。 

 ひとりで、3人、両手に抱えて、本当に本当につらくて、苦しかったから、重たかったから、もう手が痺れて肩も外れそうで、これ以上持っていることができなかったから。 
 なのに、やっとのことで放り出した長男は、1年生になっても、死ぬほど手がかかり、意味不明さに磨きがかかり、まともに学校生活を送ることなんてできなかった。 
 何度も何度も何度も注意しても注意しても注意しても、何もかも直らず、毎日、毎時間、毎分、毎秒、同じことを、同じことばかりを、怒鳴っても叫んでも彼には届かず、委縮して、反省したように見えて、また数分後には同じ失敗を仕出かし、手のかかる2歳児のイヤイヤと、ちょっとおかしい幼稚園のいろいろなめんどくさいものごとと、毎日の送り迎えと、その合間合間に、何一つまともには自分一人で出来ない小学生の絶え間ないトラブルが降り注ぎ、叫びすぎて目の前が何度もブラックアウトしたし、ああ、私は脳の血管が切れて耳や鼻から血を噴き出して死ぬんだなと思ったことも一度や二度ではなかった。 
 そのころ私には、ADHDの知識が全くなかった。 
 うっすらとは知っていたし、「きっとこの子は何かオカシイ」と思ってはいたけど、そのことに正面から向き合おうとはしていなかった。 
 毎日、文字通り朝から晩まで私に怒鳴られ続け、罵られ、長男はどんどん様子がおかしくなり、私に寄り付かなくなった。 
 そして私は、そのことに、ああ清々する!!と心の底から思っていた。 
 あー、ようやく、ひとり減った!ひとり離れた!くっつかなくなってきた、ああ清々する。さっさと他の2人も離れてほしい。ああ、もう嫌だ嫌だ嫌だ、全員大嫌い、もう私は一人になりたい、もう嫌だ。 
 って、ブツブツと唇から漏れるほどに、何もかもに疲れ切ってボロボロだった。 
 長男との関係はどんどん悪化していく一方で、私は「この子の顔を見るのも嫌!!!」っていう状態になっていた。 
 憎かった。 
 言うことを聞かない、何度注意しても直らない、フラフラして上の空で、こんなに私を苦しめて、憎たらしくて、顔を見るのも、触るのも嫌だった。 

 その状態から…、私が意を決して、「悪循環を断ち切る」って決めて、ようやく立ち上がったのは1年生の冬だった。 
 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1919467814&owner_id=53575609 
「衝突する私たち②」 
  
 それから、私と長男の関係は少しずつ、少しずつ良くなっていき、2年生の終わりごろにやっと私は、「この子には適したケアが必要なんじゃないか」と思い至り、スクールカウンセラーとの面談を経て、「確定ではないけど、グレーゾーンにあるADDだと思う」と言われた。安心したのを覚えている。 
 ああ、状態が理解できた、対処法もわかる、「やるべきことがある」んだ。だったら、できる、やれる、と思って、本当に安心した。 
 注意欠陥障害にまつわる本もたくさん読んで、ものすごく勉強した。怒鳴ったり叫んだりすることがなくなり(無意味かつ有害であるということが理解できたので)、ようやく、生産性のある対応ができるようになった。 
 私は、長男の特性をよく理解し、対策を立てることができた。 
 彼がパニックや混乱に陥らないように先回りして状態を整えることに心をくだき、頭ごなしに決めつけたり命令したりせずに、彼の理解が追いつくまで待ち、こだわりが強く我慢ができず譲れない長男がキーキーギャーギャーしないように、要求は今までにも増して通すようにした。 
 そして、長男が3年生、次男が1年生、という日々が、一見穏やかに過ぎていった。

春が、また来る④

 2年前の春に、一番目についた問題は、次男も娘も、おもに怒りの感情の抑制がまったくできない、ということだった。 
 でもそれは、今だから振り返ってそう分析できるのであって、当時は、その2人の問題の根っこが同じだとは思っていなかったし、ましてやそれが「私自身が怒りをきちんと扱えていないせいだ」なんて、そこに繋がるなんてまったく思いもしないことだった。 

 春休みの間に、妹と、私と、子供たち5人で、友達に会いに行こうと出かけたことがあった。 
 バスに乗り、電車を乗り継いで、新宿御苑に行く。という、ただそれだけのことなのに、地獄のようなことになった。巻き込んだ妹家族には本当に申し訳なかった。 
 次男は、家を出るときに「靴が気に入らない」と暴れ、行かないと言い張って全力で抵抗し、何とか気を取り直してようやく出発したら「ガムを2個食べたい」と言い出し、「ダメ、1個だけだよ」と答えたそれが地雷を踏みぬいて、めちゃくちゃに道を走って逃げだしたのだ。 
 出発の時間も、約束の時間も迫っているのに、道路を走って逃げる次男を追いかけ、物陰に隠れているのを捕まえ、引きずり出し、暴れて抵抗するのを怒鳴って押さえつけて、襟首をつかみ上げて歩きながら涙が出てきた。 
 ようやくのことでバスに乗せ、駅について電車に乗り継ぐまでの間に、次男はまた脱走した。車通りの多い道を、バス通りを、やみくもに走って逃げた。 
 私は荷物も何もかも道路にぶん投げて必死で走った。ようやく捕まえた。暴れるのを羽交い絞めにしながら荷物のように運んだ。その間、妹と2人の子供は呆然と待っていた。私の子供2人は、他人事みたいな顔つきで立っていた。 
 電車に乗ってしばらくたってから、次男はようやく落ち着いて、「お母さん、ごめんなさい」と言った。 
 ごめんなさいは、お母さんの方だったよねえ、って今本当に思う。何を思い出しても、どの場面を思い出しても、追い詰められていた子供の気持ちが今ならはっきりわかるから、泣けてどうしようもない。 
 新宿御苑で友達に会う頃には、子供たちは落ち着いていたから、なんとか笑顔で過ごせた。帰り道がどうだったのか、記憶にない。でも、何か小さなもめごとはいっぱいあったように思う。 

 そして迎えた新学期の初日、次男の荒れ方は凄まじかった。 
 何をどうやっても起きず、布団の中で石になったように動かなかった。 
 「1年生を迎える会」が、始まってしまう。2年生は、歌と演奏がある。行かなきゃいけないのに。 
 どんどん時間が過ぎていく。布団に貼りついたようになっている次男に馬乗りになって、パジャマを脱がそうとする、抵抗する、無理やり脱がそうとする、暴れる、そのさなかに電話が鳴り、それは担任からで、「時間になっても登校しないので…、どうですか」と訊いてくる。 
 私は、「すみません、行かせようとして、今の今まで格闘してたんですが、間に合わなくてすみません」と泣いた。 
 「や、いいですいいです、そういうことでしたら、無理しないでください、今日のところは、お兄ちゃんに連絡帳やお手紙を持たせますので」と電話は切れ、もう登校する(させる)必要から解放された私は呆然として座り込み、次男は固く目をつぶって布団に潜り込んだ。 
 何か憎々しげに言葉をかけたと思うけど、覚えていない。憎たらしいと感じた気持ちだけを覚えている。  
 こんなに一生懸命頑張っている私に抵抗した。言うことを聞かなかった。思い通りにならなかった。恥をかかせた。嫌なことから逃げて、怠けている。ズルい。憎たらしい。 
 そんなどす黒い、ねばねばした暗い重い泥のようなものが、のどいっぱいに込み上げてきて、息をするたびに、ゴボ、ゴボと溢れてくるようだった。そしてこの黒い泥は、ここから先、本当に長いこと私の中から汲んでも汲んでもキリがなく溢れてきた。 

 この日を境にして、次男は、まったく学校に行けなくなった。 
 学校に行くどころか、「靴を履く」ということができない。靴は、学校に行くことの連想に繋がるからだ。 
 サンダルばかり履いた。靴下も、靴も、怖いのだ。 
 牛乳を一切飲めなくなった。学校を思い出すから。 
 そして、家族と同じ皿から料理を取って食べることが一切できなかった。ペットボトルの回し飲みなんか冗談じゃなく、コップも誰かの口がついたもの、それどころか「飲んだかもしれないもの」ですら、パニックになるほど拒否した。洗ってもダメだった。誰かの箸がついたかもしれない皿、食べたかもしれない料理、何もかもを潔癖に避け、やはりその様子は異常だった。 
 春休みに見せたように、些細な、よくわからない理由で突然スイッチが入り、怒りを爆発させて、家具の裏に隠れたり、暴れたりした。押入れの中板が外れそうになるほど激しく蹴り続けたり、クローゼットの扉を何か固いもので殴り続けたり、ドアを何度も何度も、何度も、何度も蹴ったり、頭を打ちつけたりした。一度そうなると2時間は続く。一番長かったときは3時間かかった、そのときは夫も家にいて、私と夫は交代で次男を見張って(流血沙汰にならないように)、言葉を替えて説得したり𠮟りつけたり、なだめたりすかしたり、脅したり、いろいろしたけど3時間状況は変わらなかった。 
 次男の顔つきはものすごく、目は、暗く落ちくぼんでまったく光がなく、虚無そのもので…、ああ、この子は私のことを完全に拒否している、どんな言葉も何もかもこの子には届かないんだ、とはっきり思い知らされた。 
 自分の子供に、完全に拒否される、ということの、凄まじい絶望。 
 今まで、そんな絶望に直面したことがなかった。差し伸べた手にもつかまろうとせず、「おまえたちになんか何を言ったってどうせムダなんだ」とあきらめきって、ぐったりしている子供。 

 この様子を見て、ようやく、初めて、私と夫は、「学校に行くとか行かないとか、そういうことじゃないんじゃないか…、大変なことになってるんじゃないか」と思った。 
 「この子は病んでしまっている」、と気づいた。 

 「学校に行けない、というのは、『結果』でしかない、その前にこの子の病んでしまっている状態を治してあげなければ。治れば、健全になれば、その結果としてまた学校に行けるようになる」と思った。 
 それは、ある意味では正しく、しかし本質的な部分では大きく間違っていた。 
 病んでいて、治さなければならなかったのは、「子供」ではなく、「親の私たち」だったのだから。 
 そのことに気づくまでには、またずいぶんと長い回り道が必要だった。