カマキリ争奪戦
助走をつけて殴りたくなんかない
目盛りと境界
「優しさ」とか「親切」とか「困っている人を放っておけない」とかの、度合いというか目盛りの具合が、だいぶ狂ってるんだよなあ…とは、つねづね思っていた。自覚はしていた。
だけど、どこがどのようにおかしいのか、っていうことまでは考えられなくて、今までもいろいろな場面でさまざまな人に、「それは相手の要求がおかしいよ」「っていうか、なんでそれ受け容れた?」「言うこと聞いちゃったら、そりゃ、『この人はいくら要求してもいいんだな~』って目をつけられるでしょ」「相手を選んでやってるんだから、あなたに断られたらまた次を探すだけだよ」などなど、ほんとに指摘され続けてきた。夫にも。
でも結局、私自身が、「自分」と「他人」の境界が曖昧で、どこからが他人でどこまでが自分なのかを全く理解してなかったのだ。本当にわからなかった。
「自我」と認識している範囲に、相当な部分で他人を取り込んでいたり、他人に取り込まれたりしていた。
全く理解できない感覚のひとつに、「図々しい」と他人を断じること、というのが根深くあった。
人にずいぶんなことをされても、言われても、そしてそれを傍から見ている人が「図々しいよ!」って憤慨してくれてさえも、わからない。
「え~…?これって、図々しいっていうの…?」みたいに、ぼんやりする。
でもあれは、たぶん、私自身が誰かに「図々しいよ!」って怒られる恐怖を回避するための無意識の戦略だったんだな、ってついさっき思った(だから忘れないうちに書いておく)。
そう、私は、誰かに図々しいと怒られたり嫌われたりすることが怖かった。知らず知らずのうちに他人の領域に踏み込んで、「そこから入るなって言ってるでしょう!」って怒鳴られるのが怖かった。怖いけど、わからないから、やってしまいそうな気がする。気づかないうちに図々しさを発揮してしまいそうな強迫観念がいつもある。
だから、徹底的に、他人の図々しさに鈍感になる必要があったんだな。
他人に何をされても、どんなことをされても、どれほど搾取されても、「えっ、気づきませんでした…これが図々しさだとは、搾取だとは、悪意だとは、思いませんでした…私、そういうのわからないんで…」っていう風に自分に思い込ませておけば、いつか、どこかで、自分が誰かに何らかの図々しさを発揮したときに、自分に対して言い訳ができる。そのためだけに。その予防線のためだけに。
ちなみに、実際に「図々しいよ!」って怒られたことは、ない。少なくとも記憶に残るような怒られ方をしたことはない。
それなのに、「いつか図々しいと他人から指摘されないため」だけに、私を利用してくる人の図々しさや厚かましさに鈍感になり、気づかないふりをし、受け容れてきたんだなーと思うと、本末転倒も甚だしいことであるな。何やってたんだろ。
あと、もうひとつ、私の「親切」とか「優しさ」の目盛りが狂ってる理由は、やっぱり、自分で自分のことを「私は優しくない人間なんだ」ってすごく思い込んでいて、そこの思い込みが固すぎて、だから「足りない、もっとやらなきゃ、もっとやってあげなきゃ、そうじゃないと伝わらない、わかってもらえない」、ってなってたんだと思う。
誰に伝わらないの?って、それがやっぱり、お母さんなんだよなー。もうほんと嫌になる。
母に、ずーっと、「あんたはほんと優しくない」って言われ続けてて。でも私、こんなにお母さんに尽くしてるのに、まだ足りないの?何がダメなの?どうすれば優しくなれるの?って、思ってたんだろうな。
それで、足りない足りない、私は優しくないんだ、って強迫観念が、「困ってる(ように見える)人」に、過剰に何かを差し出しすぎる性癖に繋がってる。
でも、それは「優しさ」ではないし、それを差し出している相手はお母さんじゃないし、そもそも「評価してくれるはずのお母さん」っていうのも、私の脳内に食い込んでいた幻想だし。
今まで、どれだけ周りの人に、「だいじょうぶだよ、あなたは優しいよ」って言われても、言われても、ほんとに入って来なくて、「ありがとう、嬉しい、でも…」って、ものっっっすごい硬いしこりがあったんだけど、なんかもうそれも要らないな、なくなっても大丈夫なんじゃないかな?って気がした。
うん、私は、好きな人には優しいし、嫌いな人には「は~?」って思うし、自分の大事な人のためなら自分のことなんて後回しにするし、ただ、その「大事な人」の基準は、自分の中でだけ好きなように決めるし。勝手に。
そこそこ優しくて、そこそこ意地の悪い、普通の人で、ただ積極的に他人の足を引っ張ったり陥れたりとかは絶対にしない、あとはできるだけ人に迷惑はかけたくないけど、もし迷惑かけたら「ごめんなさい」って言えばいいし。
って、書いてみるとすっごい普通の…当たり前のことになったんだけど…、でも、この感じを、今の今まで私は「全く持ってなかった」んだから…!!
すごいね。みんな、こういう感じで世の中が見えてるの…?すごいね…。
なんか、よく見える眼鏡をあつらえてもらって、「えっ、わっ、すっごい見える!ウソー!」みたいな気分。
春が、また来る④
2年前の春に、一番目についた問題は、次男も娘も、おもに怒りの感情の抑制がまったくできない、ということだった。
でもそれは、今だから振り返ってそう分析できるのであって、当時は、その2人の問題の根っこが同じだとは思っていなかったし、ましてやそれが「私自身が怒りをきちんと扱えていないせいだ」なんて、そこに繋がるなんてまったく思いもしないことだった。
春休みの間に、妹と、私と、子供たち5人で、友達に会いに行こうと出かけたことがあった。
バスに乗り、電車を乗り継いで、新宿御苑に行く。という、ただそれだけのことなのに、地獄のようなことになった。巻き込んだ妹家族には本当に申し訳なかった。
次男は、家を出るときに「靴が気に入らない」と暴れ、行かないと言い張って全力で抵抗し、何とか気を取り直してようやく出発したら「ガムを2個食べたい」と言い出し、「ダメ、1個だけだよ」と答えたそれが地雷を踏みぬいて、めちゃくちゃに道を走って逃げだしたのだ。
出発の時間も、約束の時間も迫っているのに、道路を走って逃げる次男を追いかけ、物陰に隠れているのを捕まえ、引きずり出し、暴れて抵抗するのを怒鳴って押さえつけて、襟首をつかみ上げて歩きながら涙が出てきた。
ようやくのことでバスに乗せ、駅について電車に乗り継ぐまでの間に、次男はまた脱走した。車通りの多い道を、バス通りを、やみくもに走って逃げた。
私は荷物も何もかも道路にぶん投げて必死で走った。ようやく捕まえた。暴れるのを羽交い絞めにしながら荷物のように運んだ。その間、妹と2人の子供は呆然と待っていた。私の子供2人は、他人事みたいな顔つきで立っていた。
電車に乗ってしばらくたってから、次男はようやく落ち着いて、「お母さん、ごめんなさい」と言った。
ごめんなさいは、お母さんの方だったよねえ、って今本当に思う。何を思い出しても、どの場面を思い出しても、追い詰められていた子供の気持ちが今ならはっきりわかるから、泣けてどうしようもない。
新宿御苑で友達に会う頃には、子供たちは落ち着いていたから、なんとか笑顔で過ごせた。帰り道がどうだったのか、記憶にない。でも、何か小さなもめごとはいっぱいあったように思う。
そして迎えた新学期の初日、次男の荒れ方は凄まじかった。
何をどうやっても起きず、布団の中で石になったように動かなかった。
「1年生を迎える会」が、始まってしまう。2年生は、歌と演奏がある。行かなきゃいけないのに。
どんどん時間が過ぎていく。布団に貼りついたようになっている次男に馬乗りになって、パジャマを脱がそうとする、抵抗する、無理やり脱がそうとする、暴れる、そのさなかに電話が鳴り、それは担任からで、「時間になっても登校しないので…、どうですか」と訊いてくる。
私は、「すみません、行かせようとして、今の今まで格闘してたんですが、間に合わなくてすみません」と泣いた。
「や、いいですいいです、そういうことでしたら、無理しないでください、今日のところは、お兄ちゃんに連絡帳やお手紙を持たせますので」と電話は切れ、もう登校する(させる)必要から解放された私は呆然として座り込み、次男は固く目をつぶって布団に潜り込んだ。
何か憎々しげに言葉をかけたと思うけど、覚えていない。憎たらしいと感じた気持ちだけを覚えている。
こんなに一生懸命頑張っている私に抵抗した。言うことを聞かなかった。思い通りにならなかった。恥をかかせた。嫌なことから逃げて、怠けている。ズルい。憎たらしい。
そんなどす黒い、ねばねばした暗い重い泥のようなものが、のどいっぱいに込み上げてきて、息をするたびに、ゴボ、ゴボと溢れてくるようだった。そしてこの黒い泥は、ここから先、本当に長いこと私の中から汲んでも汲んでもキリがなく溢れてきた。
この日を境にして、次男は、まったく学校に行けなくなった。
学校に行くどころか、「靴を履く」ということができない。靴は、学校に行くことの連想に繋がるからだ。
サンダルばかり履いた。靴下も、靴も、怖いのだ。
牛乳を一切飲めなくなった。学校を思い出すから。
そして、家族と同じ皿から料理を取って食べることが一切できなかった。ペットボトルの回し飲みなんか冗談じゃなく、コップも誰かの口がついたもの、それどころか「飲んだかもしれないもの」ですら、パニックになるほど拒否した。洗ってもダメだった。誰かの箸がついたかもしれない皿、食べたかもしれない料理、何もかもを潔癖に避け、やはりその様子は異常だった。
春休みに見せたように、些細な、よくわからない理由で突然スイッチが入り、怒りを爆発させて、家具の裏に隠れたり、暴れたりした。押入れの中板が外れそうになるほど激しく蹴り続けたり、クローゼットの扉を何か固いもので殴り続けたり、ドアを何度も何度も、何度も、何度も蹴ったり、頭を打ちつけたりした。一度そうなると2時間は続く。一番長かったときは3時間かかった、そのときは夫も家にいて、私と夫は交代で次男を見張って(流血沙汰にならないように)、言葉を替えて説得したり𠮟りつけたり、なだめたりすかしたり、脅したり、いろいろしたけど3時間状況は変わらなかった。
次男の顔つきはものすごく、目は、暗く落ちくぼんでまったく光がなく、虚無そのもので…、ああ、この子は私のことを完全に拒否している、どんな言葉も何もかもこの子には届かないんだ、とはっきり思い知らされた。
自分の子供に、完全に拒否される、ということの、凄まじい絶望。
今まで、そんな絶望に直面したことがなかった。差し伸べた手にもつかまろうとせず、「おまえたちになんか何を言ったってどうせムダなんだ」とあきらめきって、ぐったりしている子供。
この様子を見て、ようやく、初めて、私と夫は、「学校に行くとか行かないとか、そういうことじゃないんじゃないか…、大変なことになってるんじゃないか」と思った。
「この子は病んでしまっている」、と気づいた。
「学校に行けない、というのは、『結果』でしかない、その前にこの子の病んでしまっている状態を治してあげなければ。治れば、健全になれば、その結果としてまた学校に行けるようになる」と思った。
それは、ある意味では正しく、しかし本質的な部分では大きく間違っていた。
病んでいて、治さなければならなかったのは、「子供」ではなく、「親の私たち」だったのだから。
そのことに気づくまでには、またずいぶんと長い回り道が必要だった。